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生命記号論

現代の生物学では,さまざまな生命現象が情報過程として理解されています。オオカミの遠吠えやクジラの歌など,人間と同じ哺乳類に関するものだけではありません。小鳥のさえずりやミツバチのダンス,それどころか,細胞内や細胞間の現象でさえ,「シグナル」を「認識」し,「メッセンジャー」に「応答」する過程として理解されます。何よりDNAは,RNAへの「転写」を経て,タンパク質へと「翻訳」される「遺伝情報」です。

しかし,情報とは何でしょうか。DNAは,化学的にはデオキシリボ核酸という物質ですが,なぜただの物質のことを「情報」と呼ぶのでしょうか。

実は「情報」という見方には,それを情報として解釈する解釈者の存在が暗黙のうちに前提されています。通常,現代生物学は機械論であることを自負していますが,情報学的に見れば,オオカミやクジラはもとより,細菌や細胞でさえ,機械というよりもむしろ情報を解釈する「主体」として理解されているというわけです。

生命記号論は,このような生命と情報の関係を直視して,生命を自律的な記号解釈主体として捉え,記号過程こそ生命現象の根幹であると主張します。「情報」ではなく「記号」という言葉が使われるのは,C.S.パースの記号論やソシュールの記号学がよく参照されるからであり,そこに本質的な違いはありません。

生命記号論biosemiotics)という言葉は,1960年代に最初に用いられたと考えられていますが,その先駆としては,20世紀初頭のヤーコプ・フォン・ユクスキュルの業績を挙げることができます。ユクスキュルは,動物を単なる客体ではなく,知覚と作用を行う主体とみなすことによって,動物自身が知覚し,作用する世界である環世界(Umwelt)という概念を提示しました。たとえば本棚や机,壁や天井は,ハエにとっては翅を休めることができるという意味で,すべて同じような意味を持ちます。いや,机や本棚は,得体の知れない恐ろしい存在(人間)により近く,天井よりも落ち着かない場所かもしれません。環世界とは,このようにその生物にとっての意味で構成されるいわば主観的世界ですが,それこそがその生物自身にとっての現実世界です。

生命記号論は,その生物にとっての意味世界を探求する学問であると言えます。生命記号論という言葉をそのような意味で用いたのは,動物記号論(zoosemiotics)の創始者としても知られるシービオクです。シービオク以後,植物(phyto-),菌類(myco-),細菌(bacterio-),代謝系・免疫系・神経系といった有機体の内部(endo-)等を対象としたさまざまな応用的な記号論(-semiotics)が開花しました。現在の代表的な論者としては,デンマークのJ.ホフマイヤーがいます。日本では川出由己が主に分子レベルの記号作用を分析し,「生物記号論」として論じています。

生命にとっての意味世界を探求する生命記号論は,生物学の一派としても,記号論の一派としても,残念ながら未だマイナーな存在です。しかし情報学は,情報の意味の源泉として生命を見出しました。生命記号論は,そのような新たな情報学の一翼を担うものとしても,今後の発展が大いに期待されています。

西田洋平 2016/3/29