情報リテラシー概念の分析:

情報教育の基本的な在り方について

竹之内 禎
はじめに

 「情報リテラシー(information literacy)」という語は、日本語では「情報活用能力」と訳され、近年の情報教育を推進する理念の一つと考えられている。しかしながら、情報リテラシーの概念を単純に伝統的リテラシーと並置されるような「すべての人にとって必要な能力」と解釈して論を進めるのは早計であり、その内実についてより緻密な議論が必要である。本稿では、「情報リテラシー」という語の言語的特性を分析して概念的な構造の把握をめざすとともに、そこから導かれる情報教育の基本的な在り方について検討する。

 主な参考資料は、情報リテラシーに関連が深いと考えられる社会学・教育学・情報科学・図書館情報学分野の参考図書である。参考図書は、その分野においてある程度定着した概念を記載していると考えられるからである。より新しい解釈が出されている資料なども実際にはあるが、ここでは最新の解釈を追うことよりも、基本的な語義の解釈を目的とした。

 

1 リテラシー概念の分析

1.1 リテラシー概念の二義性

 はじめにリテラシーの語義に立ち返って考える。リテラシーとはもともと「言語の読み書き能力」を意味する言葉である。「言語の読み書き能力」と言った場合、すでにその概念は、「自分の名前が識別できる程度の読み書き能力」から「聖書や新聞が読める程度の読み書き能力」まで、かなり幅がある。この点を厳密に考えると、リテラシー概念はまず次の二つの概念に区分される。

a) 「必要不可欠」という意味での、消極的・必要条件的能力としてのリテラシー概念

b) 「あると望ましい」という意味での、積極的・十分条件的能力としてのリテラシー概念

1.2 必要条件的能力としてのリテラシー概念

 言語の読み書き能力を「日常の社会生活において必要な最低限の能力」としてとらえた場合は、身につけていないと極端に不自由をするような、ごく基本的な言語識別能力を指している。ゆえに聖書や新聞が読めるほどの読み書き能力は含まれない。しかし、日常の社会生活において必要な最低限の能力としてさらに求められるものは、四則演算のレベルの簡単な計算能力である。これを加えた「読み・書き・計算」が、伝統的に初等教育のカリキュラムを構成したリテラシー概念である。

 このように、リテラシー概念を「必要最小限の能力」としてミニマムにとらえたものを「必要条件的リテラシー」と呼ぶことにする。伝統的なリテラシーは、産業化した近代国家における必要条件的リテラシーであり、「日常の社会生活上、必要不可欠な能力」を意味する概念である。言い換えれば、必要条件的リテラシーとは、「あって当然、ないと困る」という消極的意義を持った概念である。

1.3 十分条件的能力としてのリテラシー概念

 一方、聖書や新聞が読める程度の読み書き能力をリテラシーと考える場合には、その概念的なカテゴリーは、「社会生活を送る上であると望ましい一通りの読み書き能力」である。これは、単に「社会生活上ないと困る」という消極的意義だけでなく、「あると望ましい」という積極的意義を含む概念である。これを、「十分条件的リテラシー」と呼ぶことにする。十分条件とは、必要条件を含みながらも、必要条件以外の「余計な事柄」も含んだ概念である。

 読み書きに限って言えば、「文字が識別できるだけでなく、社会常識を読んで理解できる程度の十分な読み書き能力」ということになるし、「社会生活上身につけることが望ましい一通りの能力」ということになれば、計算能力をはじめ、それ以上のいろいろな事柄についての素養をも包含する概念として拡大する。情報リテラシー、コンピュータ・リテラシー、メディア・リテラシーなどは主としてそのような拡大解釈の結果生まれてきた新しいリテラシー概念だと言えるだろう。

1.4 リテラシー概念の混同

 必要条件的リテラシーと十分条件的リテラシーとは、概念の立脚点が明確に異なるのであるが、内容的には前者が後者の部分集合となっているため、類似の概念として混同されてしまう可能性がある。すなわち「一通りの十分な読み書き能力」が「社会生活にとって必要不可欠」という誤解が生じる可能性がある、ということである。すると、ほんとうは「あると望ましい能力」であったものが、「すべての人に必要だ」と誤解され、さまざまな余計な事柄が「必要なもの」にされてしまう。

 情報教育論においても、情報リテラシーの涵養が「必要だ」と主張する傾向が強いが、ほんとうの意味で「必要不可欠な、ないと困る能力」としてとらえているというよりも、「あると望ましい一通りの十分条件的な能力」を指しているようである。その中で、ほんとうに「身につけていないと生活上、多大な不利益を被る」ために必要不可欠と言えるような事柄は、実際には非常に限定されてくる。

 情報リテラシーを考える場合も、全国民的な必要条件的リテラシーの内容が、「読み・書き・計算」という伝統的なリテラシーを基本にしたものであることをふまえ、それ以上のリテラシーについては必要なときに身につけることが可能ではないか、という観点をもって情報教育カリキュラムの内容を吟味し、精選してゆくべきであろう。

 

2 情報リテラシー概念の分析

2.1 情報リテラシー概念が適用されるフィールドについて

 リテラシーの概念には、それが適用されるフィールドがある。言語レベルの伝統的なリテラシー(識字能力)では、「同一言語集団」というフィールドの属性が自明であるため、このことがことさらに論じられる必要はなかったのであるが、情報リテラシーのような新しいリテラシー概念では、情報を利用する立場によって「扱う情報」も「扱い方」も異なるため、議論や実践の前提として、リテラシー概念が適用されるフィールドを規定する必要がある。そのようなフィールドは、伝統的リテラシーのフィールドとは異なる属性を持った特殊な人間集団、限定された対象群を規定するはずである。

 フィールド規定をせずに「情報を活用する能力」と言った場合、広すぎて意味のない概念になってしまう。情報教育においては、「どのような情報を扱う能力の育成を目指すのか」が問題となる。社会生活の合理化を目的とした場合と、生涯学習を目的とした場合、学術研究を目的とした場合、ビジネスを目的とした場合では、内容的にも、教育的なアプローチの仕方もまったく異なってくる。単に「必要な情報を活用する…」とだけ言っても、それは具体化できない、曖昧な巨大概念にしかならない。

 情報リテラシー概念におけるフィールドの無規定性は、情報概念の曖昧性に由来する問題でもある。しかし、最初に情報概念の特定をめざすよりも、情報利用者の「立場」を特定することが有効な具体的方策として考えられる。どのような「立場」の人々にとっての情報活用能力なのかを考えることで、そこで求められる情報活用能力がいかなるものであるかを推測することが容易になる。

  アメリカ図書館協会が1989年1月に出した情報リテラシーに関する報告書では、「個人生活において」「ビジネスにおいて」「市民生活において」という3つの大まかな区分をしている。私自身の見解としては、1)学校教育を受けている児童・生徒にとって、2)大学生及び学術研究者にとって、3)企業人にとって、4)情報利用に障害を有する人々にとって、5)その他の一般市民にとって、という5つの区分を考えている。おそらく他にも有効なフィールド区分が考えられるだろうし、より詳細な立場を配慮して考えることが望ましい。

2.2 情報リテラシー概念の二義性について

 情報リテラシーの概念には、狭義の概念と広義の概念がある。『通信白書』(郵政省,1998)では「情報リテラシーの定義」に狭義、広義の二義性があることを指摘している。狭義にはコンピュータなどの「情報機器」を操作する能力であり、広義には「情報そのもの」を主体的に活用する能力であるとしている。実際に、他のいくつかの参考図書を参照して情報リテラシーの定義を見てみるとこの指摘が的を得たものであることがわかる。

 前者(狭義)の場合は「機器」を中心とした見方であり、「機器」の利用を前提として、情報を処理する能力を指している。一方、後者(広義)の場合は機器を利用するしないに関わらず、一般的な意味での「情報活用能力」を指しており、機器の利用はその一手段として位置づけられる。以後、狭義の概念を「情報機器活用能力」、広義の概念を「情報活用能力」と表記して区別する。

 

3 情報教育の基本的な在り方について

3.1 情報教育の原則

 情報リテラシーとは、国家・大学・企業などの特定のフィールドにおいて「必要」または「望ましい」とされる「情報機器活用能力」または「情報活用能力」である。情報リテラシーの育成を目的とする教育を情報教育と呼ぶとすれば、情報教育のあり方を考える際には、1)フィールド(立場)の特定、2)「必要」「十分」の区別、3)「機器」「情報」の区別がなされなくてはならない。

 この区別をしないと、情報リテラシー概念を誤解して「すべての人に必要な能力」と考え、「国家が福祉として全面的に情報教育を支援すべきだ」という発想が生まれるかもしれない。生活のために必要な基礎的能力を育成する目的であれば国家が支援すべきであるが、それは非常に限られた事柄であるはずである。情報リテラシーを無条件に「理想的・積極的な能力」として見るのでなく、「最低限必要な現実的・消極的能力」ととらえるシビアな視点が必要であり、そのうえで、具体的な情報教育を計画・実行すべきである。以上の観点から、情報教育の原則は次のように考えられる。

a) 必要条件的な情報リテラシーは、それが必要とされるフィールド内教育が原則。

b) 十分条件的な情報リテラシーは、自主的な学習が原則。

 基本的には、特定のフィールドにおいて「必要」とされるリテラシーを身につけるためには、そのフィールド内で教育を受け、それ以外の十分条件的リテラシーは「自己教育」によって身につけるべきである。この場合、自己教育とは自主的な学習行為のことであり、これに対し他人から教育を受けようとすれば、対価を支払うことも当然考えられる。

 たとえば大学生が研究・学習のために必要な情報リテラシーを身につけるためには大学の中で情報教育が行われるべきである。大学生にとって必要な情報リテラシーとは専門科目を学ぶ際に必要な知識と技能であり、それは大学へ入ってから専門課程に入る前までに学ばれるべき事柄である。また、企業人にとって必要な情報リテラシーとは、業務の効率化に関わる知識と技能であり、それは職業教育の一環として、企業内研修によって身につけられるべき事柄である。

 このように、情報リテラシーの概念は、それが必要とされるフィールドが規定されて初めて「必要条件的リテラシー」と考えることができる。初等・中等教育の段階では、これらの技術をすべて身につける「必要性」はない。それよりも、むしろ多くの本を読み、多くの知識を蓄える努力をした方が、ほんとうの意味での情報活用能力の育成につながるであろう。大学生や企業人にとって「必要」な情報リテラシーと、高校生にとって「必要」な情報リテラシーとは同じでない。

 『図書館利用教育ガイドライン』(日本図書館協会,1998)では、学校図書館(高等学校)版と大学図書館版の「目標」にほとんど違いが見られない。つまり、ここで目標とされているものは、一般に「できれば望ましい」というレベルでの情報リテラシーの全体であって、すべての高校生、あるいは大学生の立場から「必要不可欠」な事柄ではない。このガイドラインは、図書館利用教育の全体的目標を具体的に示した点で極めて意義深いが、目標の設定については、さらに具体的な立場を考慮して、高校生にとって「必要」な情報リテラシーと大学生にとって「必要」な情報リテラシーとを厳密に区別した方がよいだろう。

 高校生にとっては、時間が十分にありさえすれば「望ましい」情報リテラシーを身につけるための学習も行うに越したことはないが、在学期間が短いうえ、受験を控え情報教育に投入できる時間は限られているのであるから、情報リテラシーの概念は「これだけは最低限必要」というレベルにまで具体化してゆくことが求められる。情報リテラシー概念のミニマム化志向が、情報教育論における一つの基本的姿勢としてあるべきだと考える。

3.2 情報機器活用能力について

 情報機器活用能力の代表格として挙げられるのはコンピュータ・リテラシーである。しかしながらコンピュータ・リテラシーの概念も、「すべての人にとって必要」と断定する前に、リテラシー概念の二義性に立ち返って考え直さなくてはならない。つまり、コンピュータ・リテラシーは果たして「必要条件」的な消極的概念か、「十分条件」的な積極的概念かを識別しなくてはならない。

 「インターネットを使う能力は、今後、読み・書き・計算に並ぶ国民的リテラシーとなるだろう」という見解もあるが、郵政省の『通信白書1998』によれば、インターネットの世帯普及率は6.4%である。つまり、現在、9割以上の日本人はインターネットに依存した生活を送ってはいないのだ。そして、インターネットへのアクセスが不十分なために「深刻な不利益を被る」といった事態は、全国民的な規模ではまだ起こっていない。むしろ、インターネットに依存しすぎたために深刻な問題が数多く起こっている。ゆえに、「すべての人にとって必要」なコンピュータ・リテラシー概念は、現段階では成り立たない。コンピュータ・リテラシーが「必要条件」と考えられているのは、一般にはビジネスのフィールドに限ってであろう。

 また、将来的に、インターネットがテレビやファクシミリや携帯電話のように普及するとすれば、インターネットの使い方は、間違いなくそれらと同じくらい簡単なものになっていることだろう。逆に、そのくらい簡単にならなければ大部分の世帯に普及することはないだろう。そして、簡単になれば今度は「インターネットを利用するための教育」というもの自体が成り立たなくなってくる。携帯電話を利用するための教育がないのと同じ道理である。そして、テクニックよりもむしろインターネットを利用する際の「倫理」や「法制度」についての学習がより多く必要になる。これは、学校教育では、主として社会科、とくに公民科の教育課題である。

 このように考えると、コンピュータの利用能力を「すべての人にとって必要なリテラシー」だとする根拠は薄い。リテラシーにしようと考えるのは、要はパソコンを普及させたいパソコン会社である。それならば、学校や図書館にパソコンを設置する際に国家予算を全面的に投入するのではなく、米国でもそうであったように、パソコン会社に安価で導入させることが考えられる。

 しかし一方、コンピュータ・リテラシーを「望ましい能力」として積極的にとらえる立場もあるだろう。「情報機器に強い国民を育てる」という意図を国家が持つ場合である。だが、情報機器の使い方は必要に応じて、必要な場所で学べばよい。学校教育では、ごく基本的な操作法を教えればよい。コンピュータにふれる機会を与え関心を持たせればよいのであって、無理に教え込もうとすると、かえって嫌いになってしまうだろう。これも、公教育で保障するよりは、企業にやらせたほうがよい。企業にとっては、テレビでコマーシャルを出すよりも、安くて確実な宣伝活動ができ、情報機器の普及につながるので、喜んでやるだろう。企業がやれば、教え方も徹底的に工夫するだろうから、学ぶ側の生徒としてもまた学校の教師に教えられるより喜んで聞くことだろう。そして、そのほうが結果として「情報機器に強い国民を育てる」ことになる。

3.3 情報活用能力について

 「情報活用能力」の要は「判断力」である。これは、そもそも豊かな知識の蓄積たる「教養」の産物である。KJ法などの発想法に類するものは、確かに判断を助けるために有用な「情報テクニック」ではあるが、それだけでは情報活用能力の要たる「判断力」の育成にはつながらない。ましてや、インターネットの使い方を学ぶことだけでインスタントに育成されるようなものでは決してない。

 判断力は、「ある情報」に対する判断力であり、その「ある情報」とは常に「何かに関する情報」であるはずだ。つまり、「情報は主題知識に依存する」。情報の意味内容を理解し、判断し、活用するためには、その情報が依存する主題についての「豊富な知識」が基本的に必要なのである。結局総合的な判断力を身につけるためには、たくさんの知識を身につけてゆく以外に手がない。逆に、判断力は、豊富な知識を身につけてゆく過程で「自然に身につけられてゆくもの」である。

 ゆえに、手軽な「情報テクニック」のみをもって「情報活用能力」と称するのは少々危険であろう。「幅広い知識の蓄積」が情報活用能力の要たる「判断力」を育成する。両者は不可分であるから、情報テクニックや機器活用能力は、それを助けるはたらきをする程度のものと考えるべきであろう。情報テクニックを学んでも、それが使いこなせるだけの知識がなくては基本的には役に立たない。また、生涯にわたる情報活用能力を身につけることにもならない。情報活用能力、生涯学習能力を身につけるためには、何よりも豊かな知識を身につけることを優先的に考えるべきである。

 ゆえに、知識を身につけるべき学校教育の段階で、知識教育を減らしてまでコンピュータや情報テクニックを集中的に教えようとする「独立型カリキュラム」の情報教育に対しては、一定の疑問を提示せざるを得ない。高等教育や企業内研修においては、知識の蓄積がある人たちを対象にしているのでむしろ独立して教えることにも積極的な意義がありえようが、基礎知識が不十分な学習の初期段階において機器の操作法や情報テクニックのみを教えることは、実りが少ないだけでなく、むしろ情報活用能力の育成にとって「有害」ですらあるだろう。したがって、学校教育の場における情報教育は「科目統合型カリキュラム」として行うのが大原則である。

 

3.4 子どもの情報アクセスについて

 情報アクセスは、情報リテラシーの概念および情報教育実践の中でも重要な位置を占めると考えられる。学校教育の場においても、子どもがインターネット等によって情報を得る自由を権利として保障しようとする動きがあるようである。しかし、これについても一定の疑問を持って検討を加える必要があるだろう。

 私は、「子どもに人権はない」と考えている。なぜなら、人権というのは完全な責任能力を持った独立人格として自由を行使する権利であり、子どもには、親権のもとに制限された「子供の権利」が認められるだけだからである。「子どもの権利」とは、教育を受ける権利や虐待されない権利などである。

 もし、子どもにも「人権」を認めるのならば、大人と同じ「責任」をとらせなければならない。つまり刑事責任に対しては、少年法ではなく刑法を適用しなければならない。情報アクセスにおいても、「それによって生じるいかなる結果に対しても本人が全面的に責任を負う」という原則あるいは共通認識が確立していない状態で「子どものアクセス権」を主張すべきではない。情報教育を推進する立場からは、この点についての認識が甘い意見が多いように思われる。

 子どもに完全な人権は認められないし、完全なアクセス権もありえない。子どもの情報アクセスは他の事柄と同様に、親権のもとに制限され、管理されてしかるべきものであると私は考える。管理の行き届いたプールで練習を積むことが、情報の海で溺れないための良策ではないだろうか。

 

まとめ

 本稿では、情報リテラシーの概念が必ずしも「すべての人にとって必要」な事柄ではない、という考えをもとに、情報教育が福祉のように全国民的に行われるべきものではなく、それが求められるフィールドを特定し、内容を明らかにしたうえで、必要に応じて必要な場で行うべきものであること、また、情報テクニックのみをもって情報活用能力とすることができないことを主張した。学校教育の段階では、とくに、正しい意味での子どもの権利に配慮したうえで、目標とされる情報リテラシーの内容が精選され、問題解決能力の育成につながるような「科目統合型カリキュラム」の計画・実践が推進されて行くべきであるし、大学や企業といった特定のフィールドにおいては、実践に基づいた高度な議論が展開されて行くことを期待したい。さらに、情報利用に障害のある人たちに対してはいっそう細やかな対応が検討されて行く必要があるだろう。

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