情報化社会における異文化接触

相互教育インターネットグループ内に発生した
言語問題の論争を事例として
関口 礼子

1 はじめに

 「情報化社会」、「情報社会」という語が日本(1)とドイツ (2) では1960年代の半ばから使い始められ、普及している。英語圏においては、工業化社会 (3) (industrial society)の次に来る社会を、具体的に内容を示さず、単に“post-industrial society”と呼び習わしてきたが、近年、「情報社会」の訳と思われる "information society" という語も、かなり耳にするようになった。(4)

 「情報化」は、単体としてのコンピュータの普及と、「高度情報化社会」という語で象徴されるネットワーク化の2段階を経て進行してきたが(関口, 1992, p. 8)、近年、さらにもう一段階先を行く様相を示している。ネットワークが普及した情報化第2段階の初期の時代、技術的にはターミナルの操作を主とし、情報化の影響は、情報学関係の専門家の周辺に限られていたが、現在では、デスクトップのパソコンやワークステーションの普及によって情報学の専門家以外の人々にまで「一般化」され、それによって「情報化」の影響は専門的領域のみならず、たとえば教育というような、人々の一般生活に関わる日常的な領域にまで及んでいる。

 「情報化」の「一般化」の影響は、異文化接触という面でも新しい局面をもたらした。「情報化」が「一般化」する以前は、異質の文化は地理的にグループ分けして醸成され、したがって異文化への接触は、地域的に構成される異なる文化を持った人ないし人々の集団が、なんらかの理由により地理的に移動することによって行われるのが常であった。しかし、「情報化」の「一般化」、ことにインターネットの普及によって新たに可能になった異文化接触は、人々が地理的に移動することなく行われるという新しい局面をもたらした。このことは、文化の接触の規模を世界的に拡大したのみならず、しかも、瞬時に情報が授受できることによって、文化的接触が時間的差をほとんどおかずに相互的なものになり、ダイナミックなものになってきた。

 日常的な領域の一つである教育においても、教育はそもそも文化的影響力の行使であるが、その影響力の及ぶ範囲が、従来の範囲に比較して、格段に大きくなった。例を挙げてみれば、従来の教育方法では、講演や講義の聴衆が、一国在住者で高々数百人であるのに対し、たとえば、1994年に行われたRoadmap という6週間にわたるオンラインによる講習では、77カ国から6万2千人という受講者が出ている(Crispen, 1996)。その影響力の規模は、それまでとは格段の差を見るようになった。

 筆者は、カナダの多文化主義教育を見たときに、多文化主義の内容が、各民族が相互に関連なく自分たちの文化を保存・育成する個別的多文化主義からむしろ民族文化の相互の関連性に力点をおく統一的多文化主義にと変容をきたしてきたのを見た(関口, 1988, pp. 148-150)。しかし、個別多文化主義も統一的多文化主義も、一国内での状況を扱っている。すなわち、多文化主義は、異なる文化をもった人々が、一定の地域的範囲に居住するようになった結果、その空間で生活を共有することによって、多かれ少なかれ生じるようになった摩擦解消の帰結のひとつである。しかし、今回、「情報化」の「一般化」によって生じた異文化接触は、地理的移動を伴わず、生活空間の共有もないままに行われている種類のものである。

 本稿では、「一般化」した「情報化」の典型であるインターネットを利用した一つの相互教育グループを例として取り上げ、それを事例として、先ず、そのグループ内に発生した価値観の対立をめぐる論争とその変容の経過を紹介し、次いで、その事例から、「情報化」社会の、地理的移動を伴わないで経験する異文化接触が、従来の地理的移動を伴う異文化接触と同じような特徴を有するのか否か等、「情報化社会」における異文化接触の問題を考える糸口を提供したい。

 インターネットを利用した教育の中で、あえて相互教育形式のものを取り上げるのは、制度の枠組みのしっかりしている学校教育では、1993年以来情報ハイウエイ政策(NII, 1993)を採っているアメリカでもまだ、その影響力はおおきいとはいえ、教育そのものの全体的枠組み自体をを変えるまでには至っていないと思われるからである。それに対して、制度化の柔らかい、日本流の概念でいう広義の社会教育や生涯学習の領域では、教育・学習に新しい形態が容易に取り入れらている。社会教育の方法には、大きく分けて、講義・講習会形式のものと相互教育形式のものがある。先に例を挙げたRoadmapは、インターネットを通じて行われた講義・講習会形式のものであり (5) 、情報・文化の流れからいうと一方通行形式のものである。しかし、インターネットを利用した教育には、日常的に相互に情報を交換し、教え合う相互教育形式のものも多数存在する。筆者が、1994年12月に listserv@templevm の把握しているグループを出力してみたところ、1頁に約60グループずつプリントアウトして、99頁に至った。異文化の接触の問題を取り上げるのは、インターネットの特徴である双方向性を駆使し、誰もが自由に投稿をし、意見を述べることのできる相互教育形式のものがふさわしいであろう。

 異なった価値観と文化を持つ者が、対等な関係で発言権を共有し、接触するに至れば、そこには、文化間の葛藤や衝突、個人の文化習得、グループの文化変容も生じて来るであろう。人の移動をともわない異文化接触も、移動をともなう異文化接触と同様に展開されるのであろうか。具体的な事例を用いて検討してゆきたい。



2 使用言語に関する論争の経過

 ここで研究の事例として取り上げるのは、アメリカのテンプル大学にホストがあるHELP-NET と呼ばれるグループである。これは、インターネットのことについて分からないことについて相互に教え合うために設定されたグループである(Owner-HELP-NET, 1994)。LISTSERVプログラムによって運営されており、参加したいと思う人が特定のコマンドを送れば自動的に登録され、退会したくなったら、特定のコマンドを送れば自由に自動的に退会できる形式のものである。しがってまったく自由意思によってできた相互教育グループである。出入り自由であるので、参加者の人数の確定は難しいが、常時、1300人位の参加者が存在している (堤, 1996, p. 10)。日に平均24件の交信がある (堤, 1996, p. 3)。

 目的がインターネットのことについて分からないことについて相互に教え合うということに限定されているので、通常は、技術的な問題や、目的にあった資料やグループの所在に関する、たんたんとした情報の交換、教え合いが主で、激しい論争が行われることはさほど多くない。しかし、1995年1月に、このグループ自体での使用言語をめぐって、価値観の差異を明らかにしながらの熱い議論が展開された。ここで扱おうとするのは、この時の論争であり、論争の経過と投稿者のその過程における価値観の変容、最後に決着をみた時に影響したパワーについての仮説的な分析である。

 なお、この時は、ポルトガル語の使用に端を発しての議論であったが、その後、1996年2月にも、今度は、フランス語の使用に端を発して、スペイン語の使用も加わり、同じような議論が繰り返されている。投稿数は47通であった。しかし、この時は、前年のディスカッションの結果を踏まえていたので、前年ほど激しい議論にならず、また、最後には、前年の決定方針が流され、決着をみている。前年ほど劇的な論争と明晰な過程を経たとはいえないが、概して、類似の経過をたどっていることを付け加えておきたい。ここでは、その性格も明確で多様な内容が流された1995年の論争の方が分析の目的には適しているので、その論議の事例を使って分析を試みたい。

 表1 言語論争の経過

 表1は、1995年1月25日から31日にかけての交信の中から、使用言語に関する投稿を拾い出して、受信順に整理したものである。(6) 論争のトーンによって、展開の状況を5つの段階に区切った。内容欄は、英語以外の言語を容認しようとする方向で発言されているか、それとも英語のみを使用言語とするかによって分類し、「英語のみで、他の言語を排除」とする内容のものを「多言語拒絶」、「英語でなくてもよいではないか」とするものを「多言語容認」、それらのいずれの立場にも触れていないものを「中立」と分類してある。投稿言語欄は、主たる投稿言語を記載したもので、しかし、その他に、引用やその他で、他の言語がマイナーなものとして使用されているものは、( )をつけて記載してある。

 内容の展開は、およそ、次のような経過をとった。

発端

 1995年1月25日23時06分20秒(EST時間)、通常は英語で交信されていたグループに、ポルトガル語での投稿があった(識別番号1025023006。以下同じく10桁の数字は識別番号)。ブラジルのアメリカンスクールの人物からの10行の投稿であった。この人物は、1日経っても反応が無かったので、再度ポルトガル語で投稿した(1027000027)。今回は32行と長文であった。

 それにたいして、今度は反応があった。ポルトガル語で、スイスから(1027010019)と、ドイツの大学発信で職員と思われる人物のもの(1027006043)と、アメリカの大学の学生と思われる人物からのもの(1027012055)であった。スイスからの投稿は先のブラジルからの投稿文を全部引用し自分の文を3行加えた計35行のものであり、ドイツからの投稿は、自分の文は2行であるが、同じく全文を引用してあるので計34行のものであった。アメリカからのものは、この種のメールに通常の3行であった。ここまでは、他の人々は静観であった。

 しかし、通常は一つのメールが3ないし5行程度で交信されているグループで、理解できないポルトガル語の交信が計100行以上流れたことに人々の怒りは爆発した。

感情的反発期

 アメリカから、公共団体のチームリーダーと名乗る人物が、批判的意図で、スイスからの応答を全文−これは、もとのブラジルからの投稿を全文引用しているので、全部で35行ある−を、自分の文は何も加えずに流した(1027013000)。これはかなり長文のものであったので、ここで皆の堪忍袋の緒が切れたとみえて、英語圏からの一斉攻撃がはじまった。「ポルトガル語で話したい人達には、私的に行わせろ。私のメールを埋めるのは止めてくれ。」(以下の訳はすべて筆者のものである)(1027016053)、「この会話は私的にやってくれ。どうか、どうか、どうか。ポルトガル語で会話したくない人までも、これらのメールを扱わなければならないじゃないか!!」(1027017003)、「賛成!!」(1027016043)、「同感である。このお呼びでないデモンストレーションはやめてくれ。」(1028018033)

 ここで、カナダから、「ポルトガル語で交信したい」(1027020018)というポルトガル語の投稿が入って、火に油を注ぐ結果となった。アメリカの大学の教授が、「もううんざりだ」と、そのポルトガル語投稿者のメールアドレスを添えて「彼は私たちの負担を考えているのだろうか」(1029004029)と投稿した。それを受けて、「彼が確実に(英語以外の言語を使うのを)止めるように、メールを山と送りつけよう。彼のところに、すべてのメンバー一人一人が複数の手紙を送りつけよう。」「今度こういう事が起こったら、みんなでそのメッセージをその人のEメールのアドレスに送り返すことにしよう」 (7) (1029005048)と提案がなされた。他のポルトガル語の投稿者に対しても、非難や嫌がらせのメールが山と送りつけられている様子が、後に掲載された「みんなが不躾な手紙を私に送りつけた」(1031009013)という投稿によってもみてとれる。

理性的反省期

 それに対して、批判があらわれはじめた。ポルトガル語で投稿した人に、みんなで批判のメールを送りつけてその人のメールボックスを爆発させてしまおうという提案に「それはよい考えではない」(1029007016)と述べ、問題の解決の方法として、「リスト (8) のオーナーに処置を頼もう」(1029007016) 、「その人物のpostamaster (9) に、その人物を使用停止にしてくれるように依頼の手紙を出そう」(1029015011)、「問題の人物は英語が分からないのだから、だれかわれわれの意向を伝えてあげてください」(1029008030)、「新人には、教育をする必要がある」(1030001028)、などの意見が出てきた。

 同時に、「もし、ポルトガル語のメッセージが、インターネットに関して助けを求めているのなら、彼ら (の行動) は、適切である。インターネットを利用する全ての人が英語を話すわけではないのだから」(1029008052)、「母語ですらテクニカルなことを表現するのは難しいのだから、自分の最も理解できる言語で情報を求めているのなら、その情報が与えられるのを妨げるのは狭量である」(1030001049)といった投稿が出はじまった。

展開期

 新しい論調が展開されだした。「すべてのリストはすべての人間の言葉に開かれているべきである。世界はアメリカのものばかりではない」(1030020010)、「どんな言語であろうとも、Eメールを使用する能力を持つひとは、(このネットグループを)自由に活用できるようにするべきである(1031000019)、「英語以外の言語で交信するかどうかは、その人の問題である」(1031000020)。

結末期

 ドイツの大学(先述とは別の大学)から、「このグループに登録している人達のどれだけの人が、このグループで書く言語として英語のみを正当な言語と考えているのだろうか。これは、オーナーの方針なのだろうか」(1031009033)という疑問を投げかけ、そして、スイスから、問題を整理する長文の投稿が入った。「このグループでの非英語の投稿について、なんらかのガイドラインを設けるのが合理的だと考える。」基本的状況は、「すべての人が、このグループのサービスから利益を得ることができるようにするべきである。世界中の人々がこのグループ(の投稿)を読んでおり、すべての人が、英語でうまく表現できる人ばかりではない。このグループの国際語は英語である。このグループの読者の大多数は英語を理解できる。全ての人が、このグループでの善意の情報交換から、もしそれらを理解できれば、利益を得る、ということである。問題は、『すべての人が、このグループのサービスから利益を得ることができるようにするべきである』の意味する『自分の好む言語で語らせよう』という趣旨と、『このグループの共通語は英語である』の意味する『どうぞ、英語にして下さい』いう趣旨を、どう調和させるかである」として、この2つを調和させる、英語を基本にしながら他の言語にも対応できるようにする具体的提案をしている。(1031009036)

 しかし、それとは別に、「英語にしようではないか」(1031009003)という提案もなされている。また、「国連でも、英語を公用語としている、世界中の航空管制塔の使用言語も英語である」(1031009032)との、投稿も入った。

 ここで、このグループのオーナーが、このグループを運営するに当たっての新しい方針を導入するとアナウンスして、断を下した。それは、このグループへの「投稿は、英語でなければならない」というものである。彼は、その理由として、オーナーである「自分は英語しか理解できない、投稿の内容を自分が理解できなければ、全体をモニターすることはできない」(1031009037)と挙げている。さらに、その前に投稿された、「国連でも、航空管制塔も、使用言語は英語である」を再度引用して送信している(1031009051)。

 さらに、他の言語のわかる人が、ボランティアをしてくれるなら、その言語のHELP-NET を開設してもよい、自分の大学がスポンサーをする(1031009037, 1031010050) と、提案をしている。すなわち、現在のHELP-NET は、英語のみにする、しかし、他の言語の人は、別のグループでやってほしい、という言語による分離の提案である。

余波

 オーナーの断によって、この一連の論争は一応は収まったが、このあとも、その余波は、フツフツと細々ながら続いているのが見てとれることのみを付けくわえておこう。ドイツ語の投稿があったり、それにたいして、「誰か内容を翻訳をしてほしい」とか、別のドイツ人から「自分がもう返事を出したから」と彼が再度袋叩きにあうのを防ぐメールが流れたり、一部オランダ語で投稿され、それに英語の訳が添えてあったのを、「こういうのはよい」とあったり、翻訳者募集の投稿が流れたりである。

 そして、そのほぼ1年後、フランス語とスペイン語の使用をめぐって再び同じ論争が起きそうになったのは、前述の通りである。



3 論争から見てとれる異文化接触に関する考察

 ところで、インターネットを通じて採取されたこれらの一連の投稿を、文化変容や異文化接触の問題との関連させながら、考察してみよう。

 国は、公教育なり、その他の政策を通じて、一つの文化圏を構成するにいたる。言語も、国が政策として進めている強力な一つの文化項目である。まず、文化集団の単位としての国について、見てみよう。これらの論争の投稿を、カントリーコードを基に分類したので必ずしも正確ではないかもしれないが、ある種の傾向はみてとれる。HELP-NETそのものの参加者は、74か国にわたる。(10)

 発信の国別をドメイン名をもとに分類してみると、表2のようになる。(11)

表2 投稿内容別の発信国

経過の段階 投稿数 多言語拒絶
多言語容認
中立

発端 ブラジル
ドイツ
スイス
米国










感情的批判期 米国
カナダ



理性的反省期 10 米国
米国
スペイン
カナダ
米国



展開期 ブラジル
ニュージランド


カナダ
ベルギー
米国






結末期 米国
スイス
米国


米国
ドイツ


 まず第1に、投稿者は米国からが圧倒的に多い。このグループが、米国の大学において米国人によって主催されていることを反映している。現在におけるインターネットの普及の状況とも密接に関連していよう。しかし、投稿者は、米国に限られてはいない。相当に他の国からも参加者が存在していることがわかる。

 文化との関連で言えば、投稿の傾向を国別からみると、国によって、この問題に対してとっている態度が明らかに異なるのに気づく。問題の発端になったポルトガル語の投稿は、ブラジルからの2つの投稿であり、それに、スイスからとドイツからの投稿が輪をかけた。それらにたいする感情的反発期に、「多言語容認」の投稿をしてグループからの集中攻撃を浴びる結果になったのは、公用語2言語政策をとるカナダから投稿した人物である。ドイツなど英語以外の言語を母語としている国からの投稿は、概ね「多言語容認」である。「多言語容認」の方向へ論調を導いていったのも、そうした米国以外の国々からの投稿であった。

 「多言語拒否」は、圧倒的に米国である。とくに、感情的反発期に「多言語拒否」の投稿をしたのは、すべて米国からであった。この期の中心人物、「多言語容認」者を袋叩きにしようとするイニシャティブを取った2人も、当然ながら米国である。

 国によって、あるいは国の言語に関する文化的状況によって、言語問題に関するアプローチの仕方が異なっているのが明らかである。現行では、国が1つの文化圏を構成し、しかし、世界的にみると、優勢な文化集団と優勢でない文化集団が存在することが明らかである。

 第2に、しかし、論争の過程で、米国自体が「多言語排除」を自明のこととする感情的反発から、理性的反省へと論調が移ったことも事実である。その間に、攻撃の集中砲火を浴びるという犠牲者が出しながらも、「多言語排除」を自明のこととしない世論が次第に形成されていっている。感情的反発期のイニシャティブをとった2人の米国人のうちの1人は、後半で、自分の考えは、民族中心主義であったと反省の意を表明をしている(1030011038)。

 異質の考え方、異文化と接触することによって、個人の持つ思想・文化と、グループの中の文化が全体的に変容を来していることが見てとれる。すなわち、異文化との接触は、自己変革の契機となる。

 第3に、集団全体の文化変容の過程は、先に経過を詳しく説明したので反復するのは避けるが、既成の文化体系に反するような「発端」の衝撃があって、それに対する既成集団マジョリティ成員からの「感情的反発期」があり、次いでそれまで当然と思われていたことをあらためて再考してみようとする「理性的反省期」があり、そこから新たなる「展開」が生じて、あらためて高次の「結末」を出すという経過を辿る。ここに示したのは一事例の経過説明にすぎないが、この5段階による変容の経過は、かなりの程度に一般化してよいのではないかと思われる。

 第4に、大勢が「多言語容認」に傾き、その方向での具体的な調整の提案がなされ、それで落ち着くかと思われたとき、結論として「多言語拒絶」に向かわせる原動力になった2人の人物の背景に触れておこう。投稿の内容から知りえたところでは、ニュージーランドのドメインをもって投稿した1人は、オランダ系である。もう1人のアメリカの政府機関のドメインをもって投稿してきたのは、第1言語がスペイン語であった人物である。かれは、「自分はアメリカ文化に同化して、英語を学び、それがたいへん役に立っている」(1031009032)と述べている。ともに、異なる文化的背景を持ちながら、英語圏で多分苦労して地歩を占めることに成功した人物ではないかということが伺われる。こうした一つの文化圏でのマージナルな成功者が文化推進にたいしてどのような役割を果たすのかは興味深いところである。ここでは、この2人は、自分たちの文化の代弁者になるよりも、自分が苦労して成功した文化の唱導者の役割をしている。先住民などマイノリティグループ出身の成功者が、自分の民族者にたいして他のマジョリティグループに属する人々より時として過酷にふるまう、ということが時々報告されることがあるのと、共通するものを持っている。

 マージナルな成功者の準拠集団は、しばしば、自己の出身文化ではなく、優勢集団の文化でありがちであるということが言えよう。

 第5に、文化推進におけるパワーの問題をあげておこう。異文化接触とそれに伴う葛藤があったときの問題は、単に、数の上のマイノリティ・マジョリティの問題だけではないであろう。ここで取り上げた例の場合も、大勢が「多言語容認」の方向でまとまりかけたときに、グループのオーナーであるという地位を持つ人物によって、大勢の方向とは正反対の決断が下された。文化の方向づけには、単なる数の問題ではなく、パワーを持った者とそうでない者という関係が、大きく作用してくるであろうことが伺われる。同じことは、経済力、政治力、効率性のよい文化(技術)を持つ集団と持たない集団の間にも言われえよう。この時ここで用いられた、「英語はインターナショナルな公用語である」という論理も、「自分の言語をインターナショナルな公用語にし得る力」を持つか否かということにほかならない。公教育において自分の言語を用いさせることのできる集団とそれ以外の集団の間で熱い争いが起こるのも歴史に例が少なくない。自分の言語を共通語として採用させられるか否かによって、その集団の成員が社会の中でどれだけ地歩を占められるかが異なってくるからである。

 ここで取り上げた一連の論争の過程で働いたパワーは、グループの主催者であるという地位に伴うパワーであったが、文化の推進力の問題を考えるとき、パワーの問題を抜きにしては考えられないであろう。

 第6に、英語以外の言語の投稿から問題が発せられ、論争がなされ、最後に、言語によってグループを分けることで解決がはかられた。このことから、集団を区分けするのに「言語」がキイになりうる要素となることがわかる。

 言語は、集団内でのコミュニケーションを行う手段であり、かつ、ボディランゲージや音響、絵画等よりも、複雑多様な思想・文化を伝達する手段として働くからであろう。現在、政治的組織対である国によって文化圏が構成されているが、国の枠を超えてコミュニケーションが容易になる将来には、言語を用いて、意思の疎通が行われ、思想・文化の伝達が行われるがゆえに、言語を単位として文化圏が構成されてゆくということが考えられよう。少なくとも、思想・情報の伝達に係わる技術がもっと進歩し、自動翻訳手段が実用の域に達するまでは、当分、「言語」の集団区分けのメルクマールとしての機能は変わらないのではないかと思われる。



4 結語

 以上、インターネット上の相互教育グループ内で発生した異文化接触の一事例を用いて、情報化時代の異文化接触と文化の変容について考察できることを、1:現行での国を単位とする文化圏の生成と優勢な集団の存在、2:異文化との接触による自己変革、3:5段階からなる文化変容の過程、4:マージナルな成功者の準拠集団、5:全体の集団文化決定に働くパワーの存在、6:言語による世界文化集団区分けの可能性、の6点に整理してみた。一事例からの考察であるので、現時点では仮説でしかなく、さらに事例を加えて検証する必要がある。

 ここで取り上げた情報手段を通じての異文化接触は、従来の異文化接触と異なり、人びとの地理的移動を伴わないでも起こりうる種類のものである。しかし、ここで考察した6点は、いずれも、従来の地理的移動を伴う異文化接触でも観察されることである。

 インターネットの普及は、まだ世界の一部に限られている。しかし、情報手段を用いれば、人々が居住地から移動するといういわば大事業をともなうことなく異文化接触が起こりうることから、異文化に接触する機会はますます多くなり、容易かつ日常的になることが予測される。また、その手段であるインターネットが世界規模をもつことから、その接触する異文化は、意識的であれ他の目的に付随的なものであれ、たとえば留学のような本人が自ら選んだ特定の種類の異文化に限定されなくなる。一度あるグループの中に入ると、あるいは機器のスイッチを入れると、否応なしに世界中の文化に接触してしまうという可能性をもつ。また、情報の流れが瞬時に行われることから、反応は即時的になり、よい意味でも悪い意味でも厳しさを増してくることも考えられる。「情報化」の進行した時代の異文化接触は、これまでの地理的移動を伴う異文化接触と同じように、接触に伴う、衝突、葛藤、変容を引き起こし、かつ、そこには、成員の生い立ちの問題、パワーの問題が複雑にからみあった様相を呈するであろう。しかし、その頻度の増大、規模の拡大、接触する文化の種類の増大、期待される反応の加速化など、従来以上に、厳しさが予測される。そして、多文化を国内にもつ国々において、一国内の文化の区分けと融合が問題にされた時、文化グループが民族を基準にして構成され、多文化主義が唱えられたのと同様に、今度は言語を基準として文化圏が構成され、それらの間での区分けと融合が世界的な規模で模索されるようになるのではないかと考えている。



引用文献

経済企画庁編、1969、『経済白書 豊かさへの挑戦 昭和44年版』大蔵省印刷局

関口礼子、1988、「学校教育への多文化主義導入、オンタリオ州の場合」、関口礼子編著『カナダの多文化主義に関する学際的研究』東洋館出版社、 pp. 127-150.

関口礼子、1992、「社会の情報化と教育の変貌」日本教育社会学会編『教育社会学研究』第51集、 pp. 5-13

天沢退二郎他、1969、「情報化社会における人間の条件」『中央公論第84年第6号』1969年6月特大号、pp. 124-143

田中靖政他、1969、「座談会 情報化社会と情報」『言語生活 217号 特集:情報と言葉』pp. 2-16

堤美加、1996、「インターネット利用者の特性、及び情報交換の内容に関する分析、ネットワークグループHELP-NETを事例として」1996年図書館情報大学卒業論文

Courrier, Yves (1990). Information Services in Crisis and the Post-Industrial Society. Education for Information, 8 (3), Sept., 1990, pp. 223-237.

Crispen, Patrick Douglas, 1996, Map21: The Future. Roadmap96 (オンライン講習テキスト)

NII (National Infomation Infrastructure), 1993, The Administration's Agenda for Action, version 1.0

Owner-HELP-NET, 1994, Welcome! You are now subscribed to Help-Net, Owner-HELP-NET@VM.TEMPLE.EDU (入会時にオンラインで配布される会の案内)

Steinbuch, Karl, 1966, Die infomierte Gesellschaft, Stuttgart: Deutsche Verlags-Anstalt, 346p.




  1. 1969年に出版されている『言語生活』の座談会「情報化社会と情報」の中で、「情報化社会」の語が使われたのは、「2、3年前から」と表現されている。1969年『中央公論』6月号に「情報化社会における人間の条件」が載せられ、同年の『経済白書』の中に「情報化社会の広がり」という項がある。

  2. Karl Steinbuchが1966年、Informierte Gesellschaft という書を著している。

  3. 産業社会または産業化社会という訳語を好んで用いているひともいるが、筆者は、工業社会または工業化社会という訳語を用いることにしている。

  4. たとえば、Courrierは、1990年の論文で、表題で “Information Services in Crisis and the Post-Industrial Society"のように "Post-industrial society"という語を用いているが、論文中では "information society"の語も用いている。その他、Leeが、その講演(於図書館情報大学、1995) の中で、Conrad, Margaret R.が、日本カナダ学会のシンポジウム「カナダは、今・・・−個人、家族、コミュニティ−」(1996・9・13)の中で "information society" の語を用いたのなどを耳にしている。

  5. どのように行われたかを現物で見たい方は、次のようにすれば、その授業内容が自動的に届けられる (無料)。アドレスを roadmap-original@DL.ulis.ac.jpにして、本文に
    get ディレクトリ名/ ファイル名
    end
    とのみ書いて、他には何も書かずに送る。また、翻訳で見たい場合は、アドレスをroadmap@DL.ulis.ac.jp 宛てにして、同じコマンドを送る。ディレクトリ名とファイル名は、同じアドレスに dir とのみ書いて送ると、届けられる。

  6. 識別番号の数値は受信時刻を基に符号化したものである。しかし、筆者がこの一連の論争が採取に値するのに気付き、不要なものとして削除するのを止めたのは、識別番号1029004029からである。それ以前の削除してしまったものについては、アーカイブHELP-NET LOG9501からの補足である。したがって、これを境にして、アーカイブで取ったものはアメリカの現地の発信時間、それ以後のものは日本の受信時間と、識別番号作成の際の手がかりになった時刻の基準に差がある。

  7. このようなことをすると、その人のメールボックスや途中のゲートウエイが負荷加重に7り、爆発を起こして、機能麻痺してしまう。

  8. Listservプログラムによって運営されているグループのこと

  9. 投稿者の所属するコンピュータシステムの管理者

  10. HELP-NET参加者の主な出身国 (%)



    登録者
    投稿者

    アメリカ合衆国
    74.0
    73.1
    カナダ
     4.8
     2.7
    イギリス
     2.0
     3.2
    イタリア
     1.3
     0.2
    ドイツ
     1.2
     1.0
    オーストリア
     1.1
     1.4
    インド
     1.1
     0.4

    この他に、67か国が数えられる。1996年1月8日 採取データ
    (堤, 1996, p. 10 )

  11. 国別分類は、カントリーコードもとに行っている。カントリーコードのないものは、米国に分類してある。インターネットは米国からはじまったので、米国のものはカントリーコードをつけないではじまったからである。投稿内容やシグナチュアから別の国が浮かび上がってくるのは、それを優先してある。




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