まえがき


 暑い夏の日が続いている。この冊子の執筆者たちも、最終原稿の締め切りに間に合わせるべく、いっそう暑い日々になっているはずである。授業は、7月の18日で終わった。同期型オンラインによる授業の第2段目である。18日に終わっているのに、翌週の25日、いつものようにアクセスしてきた受講者が2名もいた。おふたりとも、「うっかり」を詫びていたが、私にとっては、この授業がいかに皆のなかに定着していたかがわかって、うれしい出来事でもあった。フロイトは、深層心理で望んでいないことは、やらなければならないことでも「忘却」する、と言っている。
 日本人は情報を受け取るばかりでなく、情報発信能力を身につけなければならない、ということが言われて久しい。授業は、発信型の訓練の場でもあった。そして、今最後の発信をすべく、受講者たちは力を振り絞っている。「国際教育文化情報論」の授業の「情報論」の部分を実践する場でもある。
 発信は、「論文」という形態で行うこと、という条件をつけてあった。情報発信には、その目的によって、固有の方式がある。今回も、その形式までを、他者任せでなく、自分で行うことを求めていた。アイデアがあっても、それを他者に発信できるようになるまでには、相当の苦労がある。データを揃えて、文章を書くのみならず、共通の書式で表現しなくてはならない。今回は、MS Word を用いているが、みな、コンピュータの操作という面でも、ずいぶんと学習をし、進歩したはずである。
 少数者がアイデアを出し、大勢の下働きがそれを実現するために奉仕する、というピラミッド型の労働形態は終了しつつある。自分でアイデアを出し、準備をし、実行し、後始末をする。すべての人がそれぞれ、経営者であり、計画者であり、実施者であり、労務者である、というようにならなければ、なにもできない時代に入りつつある。自分ですべてやってみてはじめて、他者の苦労もわかるし、問題点も分かるし、労働力の適正な配分もできる。構造改革も適正に行われる。情報発信も、発信する内容を持っている、発信する方法を知っている、両者揃って、はじめて実際の発信にいたる。他者まかせでは、なにもできない時代になってきている。


2001年8月3日
関口礼子
情報社会試論 Vol. 7 (2001)