サイバネティクスは、自然科学の基本的な対象である物質やそのエネルギーよりも、私たち生命体がなんらかの対象をいかに観察するのかを、考察の対象としてきました。すなわち、物質よりも情報の領域に注目したのです。コンピュータというあたらしい情報処理技術の登場に刺激をうけて、私たちの認知(情報処理あるいは観察)のしくみにたいする関心が高まったことが背景にありました。
サイバネティクスは、環境と生命体との循環的な因果関係を重視します。循環的な因果関係は、たとえばエアコンに搭載されたサーモスタットのフィードバック機構を思いうかべるとわかりやすいでしょう。設定温度と室温との循環的な影響関係にそくして作動する機構ですね。
循環的な因果関係というサイバネティクスの着想を徹底させたのが、「
ネオ・サイバネティクス」です。どのように徹底させたかというと、私たちの認知のしくみについて考える際に、ある時間的な一点における認知ではなく、私たちが生まれてから今にいたる認知の歴史全体を考慮に入れ、
その歴史全体に循環的な因果関係という構想を導入したのです。
あらためてエアコンの例で考えてみましょう。冷房設定のとき、サーモスタットによって、室温がエアコンの設定温度を上回ればエアコンは作動し、下回ればエアコンは一時停止するでしょう。設定温度はエアコンが室温を「観察」するための「認知」の枠組といえますね。ここで設定温度は、外部の人間が機械的に設定する基準にすぎません。
しかし、私たち生命体に目を向けると、私たちが認知するときの枠組は、外部から機械的に決められるものではありません。今まで生きてきた時間のなかで経験をつうじて作られてきたものです。私たちの価値判断の基準と言い換えてもよいでしょう。ネオ・サイバネティクスが扱うのは、このような認知(観察)の枠組であり、ある時間的な一点における認知(観察)行為ではなく、それを可能にする
認知(観察)の枠組そのものを問題にするのです。
このような考え方は、
ハインツ・フォン・フェルスターという物理学者の記憶研究からはじまったので、フェルスターはネオ・サイバネティクスの始祖とされています。私たちは、今の状況に対処するときに、意識するにせよしないにせよ、過去の経験をある程度参照しますね。似たような状況を昔いかに評価し、どのような行動によって対処したのかを思い出すとき、私たちは単に記憶をたどっているだけではなく、そのときの価値判断の基準をふたたび学習しているのです。いわば、体験の記憶をひきだすとき、私たちは体験をもう一度とり入れていて、ここにフィードバックの循環があります。フィードバックループによって、一人ひとりに固有の価値基準ができていくわけです。
このように記憶能力と学習能力は不可分に結びついていますが、記憶や学習だけではなく知覚能力や推論能力なども含めた
全体的で統合的なプロセスとして、認知を理解する必要があります。私たちの認知は、一つひとつの機能のたんなる寄せ集めをこえて、全体として実現するはたらきなのです。要素の寄せ集め以上のはたらきを全体として実現するものを「システム」と呼びます。私たちの身体も、器官のたんなる寄せ集めではないので、システムの代表例ですね。したがってシステム理論は、ネオ・サイバネティクスにとってたいへん役立つ考え方だといえるのです。
なお、フィードバックのループを「再帰性」と言い換えることができます。私たちの再帰的な認知プロセスは、循環的に閉じています。その意味で私たちは、
認知的(情報的)には、外部から内部へ情報をとりいれたり逆に与えたりする開かれたシステムではなく、内部と外部の区別が問題にならない、閉じたシステムなのですね。これを「
情報的閉鎖系」と呼んでいます。しかし閉じていることは、私たちの認知プロセスがいつもぐるぐると同じ場所をめぐって現状維持に甘んじているだけということを意味しません。むしろ、状況に応じて、あたらしい情報をらせん的に創発させていく可能性がひらけており、ゆたかな創発を実現させ望ましい方向に導くことが、ネオ・サイバネティクスの重要な課題の一つとなっています。
この課題を果たすための理論的な基礎づけとして、神経生理学者のウンベルト・マトゥラーナが弟子のフランシスコ・ヴァレラとともに提唱した考え方を、
オートポイエーシス理論といいます。オートポイエーシスとは「自己創出」を意味する造語です。細胞分裂を思うとわかりやすいですが、私たちは身体的には、今と同じ状態を保つために自分の体を作りつづけています。身体的なオートポイエーシスですね。老いや病はあるにせよ、成長してしまえば、基本的には現状維持を続けているわけです。この現状維持は、私たちが自分自身であるために欠かせません。
しかしそのうえで、単なる現状維持にとどまらず、コミュニケーションをつうじてあたらしい自己を創りだし、ときに自己変革さえもうけいれていくことが、千変万化する環境のなかで生きるために必要不可欠ではないでしょうか。それを可能にするのが観察(認知)という営為なのだと、マトゥラーナは考えました。意味的・情報的なオートポイエーシスが起きているのですね。
なお、ここでいう観察は、知覚とは区別されます。すでに述べたように、観察(または認知)は全体として把握されるべきものであって、知覚はその一部の機能にすぎないのです。たとえば色の認知について考えるとき、ネオ・サイバネティクスが重視するのは、「どうしてその色が私に見えているのか」という知覚の問題ではありません。むしろ、「その色が見えていると私が
語るとき、私のなかでは何が起きているのか」という観察の問題なのです(括弧内は、マトゥラーナによる表現をもとにしています)。ある色は、誰にとっても同じように見える客観的な現実ではなく、むしろ、一人ひとりが過去の体験に即してつくりあげる主観的な現実なのです。この事実を、マトゥラーナは、ハトの色覚をめぐる研究データからあきらかにしました。
このように、
各自の経験にもとづく歴史を背負って生きることと観察とが一体のものであると示した点で、マトゥラーナはネオ・サイバネティクスのもう一人の父とみなされています。私たち生命体の本質が「観察者」として理解されたわけです。ネオ・サイバネティクスに深く関係する
生命記号論は、こうした観察者としての生命体について深く考察する研究領域なのです。
現実が観察者の外部にあって、観察者はその現実を表現(表象)するのだという表象主義の考え方ではなく、現実は観察者の内部でつくられる(構成される・自己創出される)のだという考え方を、構成主義といいます。常識的には、私たちは外部から情報をインプットし、そしてまたあたらしい情報をアウトプットするという直線的で機械的な情報処理のモデルによって、認知やコミュニケーションを理解しています。この考え方は、情報処理パラダイムと呼ばれています。
しかし構成主義の立場からは、私たちはそれぞれが認知的に閉じた世界のなかに生きているのであり、情報は決して伝達されるものではなく、閉じた世界のなかで作られるものなのです。この立場は常識的な認知理解である情報処理パラダイムとは根本的に異なる(つまりラディカルな)ので、とくに
ラディカル構成主義と呼ばれています(ラディカル構成主義という呼称のより正確な由来は、ジャン・ピアジェの構成主義理論をラディカルに解釈したことですが、くわしくは別ページの説明を参照してください)。私たちは、内的なフィードバックループによって、過去に構成した情報(現実)を想起しつつ新しい情報(現実)を構成しているのであり、現実の構成をつうじて、結果的に私たち自身をもつくりあげています。なぜなら、くりかえし参照される認知の枠組は、私たちのアイデンティティ(同一性)をなすものだからです。さらにいうならば、私たちの現実とは、私たちのものの見方の実現なのです。
しかし私たちは、まったく自分勝手に現実をつくりあげているわけではありません。自分ひとりだけが世界に実在するという独我論に、ネオ・サイバネティクスは与しません。このことを、
山高帽をかぶったビジネスマンのユーモラスなイラストが示しています(ゴードン・パスクによるものです)。私たちの思う現実が、他者からみると的外れな思い込みであるために、円滑な社会生活を送るうえで支障をきたすことがあります。そんなとき、自分と同様に現実を構成する他者をみとめ、他者との相互作用をつうじて現実や認知の枠組を調整すれば、問題が解決するでしょう。こうした行為調整は日常的におこなわれています。ビジネスマンは他者を頭のなかにつくりあげていますが、他者も同様にほかのビジネスマンをつくっています。他者の頭のなかの右下方に、山高帽のビジネスマンが小さく描かれていますね。現実は、単に自分ひとりがつくるものではなく、共同でつくられ参照されるものでもあるのです。
私たちは基本的に、他者や環境からの刺激を介してはじめて、あたらしい自分のあり方や現実や情報をつくりあげることができます。逆にいえば、私たちは自分なりの見方をもって情報的に閉じているからこそ、他者に開かれ、つながっていくことができるのです。このことを、ネオ・サイバネティクスでは「
閉鎖性からの開放性原理」と呼んでいます。
ネオ・サイバネティクスにおいて私たち生命体は、環境や他者とのつながりをぬきにした単独のものではあり得ない存在として、理解されています。つまり私たちは、単独のシステムではなく、つねに他者と複合したシステムとして、捉えなおされるのです。生命体のこのゆたかな複雑さと多様さを大切にして、
機械のように単純な存在とみなす力に抗うことが、ネオ・サイバネティクスの願いの一つです。
そのために、認知の枠組として世界(現実)を理解したうえで、複雑性と全体性をそなえた生命体のあり方をデザインしていくことが目指されています。頭でっかちになることなく、認知の環境といえる身体やそれに付随する感情も考慮した全人的なあり方は、望ましいものの一つでしょう。
認知の枠組に注目するネオ・サイバネティクスは、その枠組がつくられてきた来歴を考慮するので、現時点においてのみではなく歴史も含めて自分や他者を理解しようとします。自分の観察枠組では何が
盲点になっているのか、なぜ他者はそのように考えるに至ったのか、などが問題にされるのです。このことも、生命体を単純化しないための方策です。機械とはちがって、生命体は時間のなかで生きているからです。
デザインという観点から、ネオ・サイバネティクスは、情報倫理や芸術論に深く関係しつつ、文学研究・社会学・メディア文化研究・情報社会論・教育論・組織研究などに応用されてきました。具体的な事例として、アプリケーションの開発や集合知の研究にも直接的な貢献をしてきています。ネオ・サイバネティクスは、私たちが全人的に生きる選択をするとともに、他者を深く理解しつつともに生き、多様性をそなえたゆたかな世界をつくりだしていくための、実際的な思想であり実践なのです。