知識とは何でしょうか? 知るというのはどういう行為でしょうか? 知識がどのように成立しているのかを問うことなしには情報学はありえません。ところで、知るという行為について合理的なモデルをつくるために、唯一絶対の客観的な現実というものの存在を前提にする必要はあるでしょうか? 知識とは、客観的現実を何らかの仕方で多かれ少なかれ精確に反映した写像としての表象のことなのでしょうか? そうではない、と考えた一人に、ラディカル構成主義を提唱したエルンスト・フォン・グレーザーズフェルドがいます。合理的に考えるなら、知る行為は、認知する主体から独立した客観的現実なるものに依拠することなしにモデル化すべきであるし、そうできるということを、グレーザーズフェルドは理論化してみせました。知るという行為を、何か小包のような客観的な実体として想定された知識を外部から入力して獲得することと定義するのではなく、自分の経験的世界のなかでうまくやっていける自分なりの行動や思考の仕方を自分で構成して適応することと定義したのです。そうすれば、客観的現実について言及しなくても、学習やコミュニケーションの過程を合理的にモデル化することができるというわけです。経験的世界の外部を参照しない情報的閉鎖系の自己産出的な学習やコミュニケーションを理論化するネオ・サイバネティクス/基礎情報学にとって、ラディカル構成主義はその基礎的なモデルを提供してくれる重要な研究のひとつです。
ラディカル構成主義は、不可知論的な懐疑論の立場から、いかにして人間の知る行為を説明できるかのモデルを提案しました。人間の有限な理性には、自分が経験しているこの主観的世界と、自分の経験の限界を超越しているために到達不可能な客観的現実なるものとは、比較しようがありません。人間が合理的に検証できるのは、自分が構成するものと自分が経験するものとの整合性だけです。それゆえ、知る行為についての経験的で合理的な理論としてのラディカル構成主義は、独立した実在と表象との相関を前提にするような認識論や知識論を擬似問題とみなします。だから、ラディカル構成主義がいう知識の構成とは、客観的現実を構成することでもなければ、客観的現実についての主観的な表象を構成することでもなく、経験的状況についての主観的に整合的に組織された概念構造を構成することなのです。
ラディカル構成主義にとっての問題は、合理的には証明不可能な客観的現実との一致に頼ることなしに、人間がいかにして比較的安定した整合的な経験的世界を構成できているかのモデルを提示することです。たとえば、単数や複数や数のような、経験的には客観的にみえる数学的基礎概念も、客観的現実に実在する所与の存在として前提することなしに、主観的経験のなかで構成できることをモデル化しようとするのです。
ラディカル構成主義の基盤のひとつに、ジャン・ピアジェの構成主義的な発達心理学があります。グレーザーズフェルドは、生物が自分の経験的世界を整理するための概念操作の詳細を研究するために、ピアジェの構成主義の認識論的な意義にラディカルに踏み込んでいきました。それで、ウィリアム・ジェイムズのラディカル経験論という呼称にならいつつ、ラディカル構成主義と命名したそうです。
ピアジェは、知る行為とは生物の個体発生的な適応にほかならない、と考えました。知る行為とは、客観的現実と一致する表象を獲得することではなく、自分の経験的状況に適合する概念構造を組織することだと考えたのです。この概念構造は、主観的経験から抽象した概念でできています。すなわち、運動感覚にもとづく形象的な経験的抽象と、心的操作にもとづく論理的な反省的抽象の、二種類の抽象化による概念ですが、いずれも、現実から抽象したものではなく、個体が自分の経験から抽象したものです。
概念構造の経験的状況への適応は、状況認識とそれにもとづく行動とその結果の予測からなる行動図式を、実行と調節によって更新しつづけることで達成されます。このとき、適合すべき対象として客観的現実を仮定する必要はありません。なぜなら、行動図式にもとづく行為が失敗したときに、概念構造がその経験を同化できなかったことで発生した攪乱を均衡化する方向へと、行動図式を調節しさえすれば、知る行為者の経験的状況と概念構造との適合は向上していくからです。実在と一致することではなく、経験と両立することが、適合です。
適合としての知識にとっては、真か偽かではなく、それにもとづく行為が成功するか失敗するかが問題です。ある概念構造がある経験的状況のなかで問題解決に成功するかぎり、それは実行可能であるといえます。新たな経験に直面してなお実行可能であり、かつ、使用中の他の図式や理論と両立可能なものが、適合している概念構造です。経験的状況に適合する概念構造を組織することが、ラディカル構成主義的に知るということです。
適合と実行可能性については、鍵と錠前のたとえ話があります。錠前を開けるという問題を解決することに成功しさえすれば、それがペーパークリップだろうとヘアピンだろうとクレジットカードだろうと合鍵だろうと、錠前に適合した実行可能な鍵であるといえます。このとき、錠前は、開けられない鍵の形を否定しているだけであって、開けられる鍵の形を決定しているのではないことが重要です。そして、錠前と鍵との適合と実行可能性は、鍵の能力についての記述であって、錠前の特性についての記述ではないこともまた重要です。ラディカル構成主義では、ある事態が起こらない理由は特定できるけれども、ある事態が起こる原因は特定できないと考えるのです。
これを、グレーザーズフェルドは、グレゴリー・ベイトソンにならって、サイバネティクス的な説明法と呼びます。制約を特定して分析することで、ものごとを積極的にではなく消極的に説明する方法です。その古典例に、進化における自然選択説があります。ある生物が適応しているというのは、選択の結果としてその生物がこれまで環境の制約のなかで生存できてきたということです。それは、その生物が無限にありうる生存可能性のなかのひとつを構成しているということにすぎません。そこからは環境自体についてのいかなる積極的な記述も推論することはできないのです。
生物は、自分で失敗するとき、つまり行動の結果が予期と異なったときに、概念構造が制約と衝突してしまったことのネガティヴ・フィードバックによって、あくまで制約として消極的に現実を特定できるだけです。制約は適合しないものを排除するだけで、制約と衝突しないものにはいっさい干渉しません。衝突や失敗といった経験によって特定されるのは、ある経験的状況ではある概念構造が機能しないということだけです。実行可能なものは、それがそれまで制約を回避してこられたからこそ実行可能なのだから、制約が何であるかや、制約からなる現実がどうなっているのかについては、積極的には語りえないわけです。制約は、現実の特性ではなく、経験的状況と概念構造の適合の特性です。実行可能性とは、存在的現実との適合ではなく、経験的状況との適合の問題なのです。
実行可能性と適合という考え方のプラグマティックな価値は、環境や社会や他者との衝突を回避することにあります。制約としての現実は、客観的な存在としての現実ではありませんが、倫理を基礎付けてくれるような発見的な仮構としては想定できそうです。ラディカル構成主義は、個々の主観から独立した一つの現実を人々が共有していることを保証しませんから、一見すると、実行可能なものは何でもしてよいという自己中心的で非倫理的な行為律を肯定しているかのようにも誤解されかねませんが、ほんとうはそうではないのです。倫理の基礎としての、社会と他者の構成もまた、ラディカル構成主義が取り組むべき課題です。
グレーザーズフェルド自身は、どうしたら知識の間主観的な実行可能性をうちたてられるか、と考えました。経験の外部を持ち込まずに理論モデルをつくるラディカル構成主義において、他者については次のように問いが立てられます。すなわち、いかにして人間は自分の経験的世界のなかに他者を構成するようになるのか? 主観的な概念構造の実行可能性に確証を与えてくれるのは、実行可能性を有する構成主体としての他者だけであり、だからこそ人間はそういう他者を構成せざるをえない、というのがラディカル構成主義的な解答です。
グレーザーズフェルドは、個人の経験のなかで自分と同様の構成主体としての地位と能力を付与されたものが他者である、と考えます。主観的に実行可能な概念構造は、そういう他者によって確証されるとき、間主観的に実行可能なものになります。間主観性は、主観的な概念構造が他者に共有されているという考えに妥当性を与える、社会的な水準です。実行可能性についての実行可能性を判断するので、セカンドオーダーの実行可能性ともよばれます。個人が間主観的な概念構造の実行可能性を確立するためには、自律的な構成主体としての他者による確証が必要なので、ここに、倫理的な他者への関心が基礎付けられるのではないかと考えられるわけです。他律的な他者では間主観的な実行可能性を確証できないのだから、まさに自分自身の構成の実行可能性のために、他者の構成の解釈モデルとしても実行可能な倫理的な規則と価値を維持しないわけにはいかないのです。
ファーストオーダーの実行可能性だけでは、自己中心的で非倫理的な用法がありえますが、セカンドオーダーの実行可能性には、その基礎に、自分自身と同様の行為律を有するようにみえる他者の構成があります。ラディカル構成主義的には、他者の内的な経験を、不可知だからといって消去するのでも、汎心論的に所与の存在として前提するのでもなく、セカンドオーダーの実行可能性として合理的にモデル化しなければなりません。それは個人的な倫理を基礎付ける概念になりうるでしょう。しかし、それであっても、個人を超えたいかなる社会的な倫理も提示されたことにはなっていません。ラディカル構成主義的な倫理学はまだ端緒についたばかりといえます。
また、ラディカル構成主義は、自己と意識を前提としていますが、それらについての実行可能なモデルをつくることも課題として残されています。経験的な自己の構成についての実行可能なモデルは提供されているのですが、しかし、その構成をおこなう操作主体としての自己、すなわち主観的な自覚の中心としての自己は、経験的構成の外部であり、形而上学的な問題になってしまいます。また、意識については、ラディカル構成主義は、記憶ができて経験を反省できて選好を発達させられるような意識を、前提にしています。意識の心的操作は直接観察できるものではなく、観察から推論するしかありません。意識の実行可能なモデルをつくりあげた研究者をいまだ知らない、とグレーザーズフェルドは述べています。
ラディカル構成主義は、生物にとっての比較的安定した世界が、その情報的閉鎖性にもかかわらず、いかにして発生するかについてのモデルを、ネオ・サイバネティクス/基礎情報学に提供してくれます。それは、とりわけ基礎情報学における「擬似的な情報伝達」としてのコミュニケーションがいかにして成立しているかについて、基礎的なモデルを提供してくれています。
ただし、あくまで人間の個人的な知識を研究するラディカル構成主義は、生命・社会・機械にわたって情報を研究する基礎情報学とは、目的が異なりますから、いくつかの論点については発展的に応用することになります。とりわけ、ラディカル構成主義における個人中心主義的で人間例外主義的な議論は、基礎情報学的には実行可能なものとはいえません。
ラディカル構成主義は、個人の視点からの知識やコミュニケーションについては説得的なモデルを提供しているものの、社会的組織の視点からの議論はほとんど理論化されていません。しかし、情報やコミュニケーションやメディアについての研究には、個人の視点と社会的組織の視点の両方がなくてはなりません。社会的組織の視点なしでは、個人と社会的組織との関係の力学がみえてこないからです。また、個人にとっての環境である社会的組織がいかにして概念構造を構成しているかをモデル化しないと、その動的な変化がとらえられません。そうすると、社会的次元の概念構造が、あたかも個人的経験から独立した不変の真理であるかのような誤解をまねきかねません。しかし、個人は自分から独立した静的な社会的組織との両立可能性を模索しているのではありません。社会的組織も個人と連動して変化するのであり、それを理論的にモデル化できなければいけません。
そこで、基礎情報学は、ラディカル構成主義における経験的抽象と反省的抽象という個人的次元での抽象に加えて、社会的抽象を導入することで、社会的組織の次元で抽象される概念についても考察していくことになります。つまり、個人の次元で抽象された概念から個別具体性を捨象し、形式論理によって機械的に操作できる一般的な記号へと抽象された概念です。とりわけ近現代の情報メディア状況では、社会的抽象による概念が大量に流通していますから、それが個人的経験にもとづく経験的・反省的な概念構造とどのように関係しているかは、重要な研究課題となるでしょう。
さらに、情報の生態系という観点からすると、個人という概念そのものも自明視するわけにはいきません。人間ひとりであっても、60兆個の細胞という自己産出系の共生体でもあれば、情報の流れのひとつの渦でもあります。そういう多重性のなかで、人間が社会を組織するにあたって、さしあたり個人という概念をつくることでなんとか実行可能でいるということにすぎません。ラディカル構成主義が前提としている個人、そして自己や意識についても同様に、このような観点から問い直されることになります。
それから、ラディカル構成主義では人間の言語的コミュニケーションが中心的にモデル化されてきましたが、適応としての知る行為は、人間に限定されないあらゆる生物たちのものです。言語学的転回にくわえて分子生物学−動物行動学−認知科学−情報工学的な知見にもとづく情報学的転回をふまえた基礎情報学は、人間だけを例外的にあつかう議論の根拠を疑い、生物として人間をとらえます。コミュニケーションについて、人間の言語を特権化する観点からではなく、生物的な観点から問い直していくのです。ラディカル構成主義においては経験の領域は人間の言語的な合理性によって限定されていましたが、感性や情動や身体知や暗黙知などの生物的な知識やコミュニケーションに着目することで、経験の限界そのものが問い直されることになるかもしれません。それは、ラディカル構成主義的な研究課題でいえば、感覚運動にもとづく形象的な抽象として定義された経験的抽象や、概念構造の実行可能性を批判する社会と他者の倫理といった、概念構造の手前で概念を形成している前概念的な経験の領域に、基礎情報学的な探究の余地があるということです。
そのためにも、生物と機械が識別できなくてはいけません。人間を特権的に生物から区別する考え方や、生物を実体論的な生気論によって機械から区別する考え方は、現代の科学では疑問視されています。それは、生物としての人間もまた機械であるということを意味しているのでしょうか? そうではありません。ネオ・サイバネティクス/基礎情報学的には、生物と機械の違いは、実体論的な要素の違いではなく、システム論的な編成の違いと考えられています。ただし、この違いは、システムを内側から観察する視点がないと、識別できません。生物も機械も、客観的に外側から眺めるかぎり、どちらも、データを外部から入力して内部で変換処理をして出力する機能に還元された、アロポイエティック・システムにみえることでしょう。しかし、内側から眺めるなら、外部とのデータの入出力なしに自己参照的に自生するオートポイエティック・システムである生物の、情報的閉鎖性がみえてくるでしょう。そしてまさにラディカル構成主義は、外側からの客観的記述は人間の理性には不可能であると主張して、あくまで内側からの主観的記述を理論化することにこだわったのでした。
ラディカル構成主義的な主観的記述ないし一人称記述と、機能主義的・還元主義的な客観的記述ないし三人称記述とのあいだには、深い断絶があります。しかし、それもまた所与の前提ではない、と基礎情報学は考えます。なぜなら、主観と客観という二元論的な概念もまた、多様なHACSの作動や関係の結果、仮構として形成された概念のひとつにすぎないからです。だから、そういうHACSこそが考察されなければなりません。
ラディカル構成主義は、ヴィーコにならった科学と芸術の識別、あるいはカントにならった超越論と思弁の識別のうえで、科学的で超越論的な合理的学問として探究されてきましたが、一人称と三人称を架橋する境地には、ラディカル構成主義的な科学と芸術の識別や超越論と思弁の識別とは、別の識別があるかもしれません。
このように、ラディカル構成主義は、ネオ・サイバネティクス/基礎情報学にとって、基礎的なモデルを提供してくれているとともに、探究すべき課題もまた提案してくれている、重要な研究なのです。
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