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遠眼鏡でみるノーベル賞

◎三つの幸運

 史上初のノーベル賞ダブル受賞で、国中が沸いた。とりわけ僕が嬉しかったのは、田中耕一さんの化学賞である。博士号すら持っていない地味な企業エンジニアがノーベル賞を受賞するなど、日本の科学技術界ではまずありえない珍事なのだ。かつて企業の研究者だった人間としても、ご同慶のいたり。作業服に無精ヒゲの写真もよかった。

 あまり知られていないが、わが国の理系研究者の世界は、国際的にみても相当きびしい年功型階級社会である。いわゆる一流大学卒のエリートたちが、激しい競争のなかで官民諸組織の要職を独占し、営々と出世していく。大きな賞はたいてい組織の推薦で決まるから、受賞者は組織で出世した人物ということになる。すでに偉い人が受賞し、もっと偉くなり、今度は審査委員になって、目をかけている後進に受賞させる。だから受賞も組織のため、組織のおかげだ。

 この常識を破ったのが田中さんである。いったい何が起こったのか。

 田中さんはたまたま誤って薬品をこぼし、それがタンパク質分析法の大発見につながったという。この幸運に加えて、僕はあと二つツキがあったと推測している。第一に上司にめぐまれたことだ。

 島津製作所の社風はよく知らないが、メーカーではふつう、いくら有能でも出世嫌いの研究一途というタイプは嫌われる。上司にもよく逆らうし、管理部門にもおべっかを使わないからだ。成果はそこそこでも従順忠実な社員が管理部門のお気に入りである。いったん管理部門から睨まれたら、出世もできず、自由な研究もできない。つまり、研究一途のタイプが力を発揮するには、守ってくれる具眼の上司が不可欠なのである。田中さんだけでなく、懐の大きい上司にもご褒美をあげたらどうか。

 第二の幸運は、ドイツなどの研究者がフェアだったこと。田中さんの成果をきちんと学界に認めさせたのは彼らだったという。日本の研究者の成果が海外で横取りされたり無視されたりすることは、決して珍しくない。

 というわけで、三つの幸運が重なった。実に稀も稀、まさに奇跡的な出来事ではないだろうか。

 一方、小柴昌俊さんのほうは、田中さんに比べれば順当な受賞だ。何しろ、日本の素粒子物理学界のドンと言われる人物である。今回の朗報は、小柴さんばかりでなく、日本の物理学者みんなのものと言える。観測装置カミオカンデはちょっと値段が張ったかもしれないが、今後この分野の研究予算獲得はずっとラクになるだろう。

 今やヒーローはサッカーや野球の選手ばかりである。ダブル受賞で、スポーツ嫌いの若者にも少しは希望の光が射してくるかもしれない。

◎神のたまわりもの

 という次第で、まことに結構と言いたいのだが、何となく背中がムズ痒くなってくるのはなぜだろうか。いや、受賞された両氏のことではない。褒めそやす周囲の声のあちこちに、グロテスクな意図が見え隠れしているのだ。今回のダブル受賞を悪用し、膨れあがったヒーローの虚像によって、おのれの支配を強化しようとする社会的圧力があちこちからヒョッコリ顔を出している。

 島津製作所の株価はハネ上がったという。今後、大企業の研究所ではいっせいにノーベル賞取得戦略が練られるだろう。大学もまた右に同じ。いくら研究者が「狙って取れるもんじゃない、自由な好奇心が大切なんだ」と力説したところで、役人や政治家は「お前ら取れねえんなら、カネやらんぞ」とすごむだろう。

 そうでなくても、近ごろの大学はきな臭い。限られた研究拠点だけに予算を重点配分するという脅しもある。ノーベル賞さえ取れば万事オーケーという話になるだろう。だがそうなれば早晩、日本のすべての研究者がノーベル賞ほしさに狂い出すのではないか。

 田中さんには、ノーベル賞受賞後、あわてて文化勲章が授けられたという。つい最近まで候補にもなっていなかったのに、自主的判断はゼロなのか。受賞者の業績について何一つ知ることなく、ただひたすら伏し拝むなら、ノーベル賞とはまるで神のたまわりものだ。突如、偉人が出現するのである。

 大騒ぎのなかで、田中さんはついに「そっとしておいてほしい」と本音をもらしたそうだ。だが、世間はそっとしておきはしない。ハイエナのごとく襲いかかり、商品価値がつきるまでむさぼり喰らうだろう。マスコミで教育論や文化論を、語らせようとするだろう。

 田中さんにかぎらず、ノーベル賞を受けるほどの研究者はたいてい専門ナントカである。深いけれど狭い。むろんそれで良いのだが、彼らにむりやり教育論や文化論を語らせるなら、それは素人にオペラのアリアを歌わせるようなものではないか。

◎進歩主義批判はどこに

 要するに、ノーベル賞の受賞をただむやみに誉め称えるより、少し立ち止まってみようと言いたいのだ。いったいそれは、地球上の万人を納得させる普遍的価値を持っているのだろうか。

 ノーベル賞が始まったのは一九〇一年のことである。二〇世紀初頭には、「人類の進歩」という概念がいきいきと脈打っていた。近代化されていない日本では、ノーベル賞こそ知の金字塔そのものだっただろう。だが、その後の二つの世界大戦、そしてここ数十年間の凄まじい地球環境破壊を目の当たりにして、いったい誰が、文明の進歩なるものをまだ本気で信じられるのか。「科学とは一種の言語ゲームなのだ」というポストモダンの進歩主義批判など、ただ高等遊民のタワムレでしかないと言うのだろうか。

 およそ独創的な発明発見には、かならず負の部分がひそんでいる。進歩と思われた業績が僕たちを苦しめている例はおびただしい。たとえば、日本だけでも数千万人を花粉症患者にしたディーゼルエンジンの排気ガス。無数の皮膚癌患者をつくったフロンガスのオゾン層破壊。だが、ディーゼルエンジンもフロンガスも、かつては画期的な発明として褒めそやされたではないか。

 これは実際的発明だけでなく、理論でも同じだ。ノーベル物理学賞を受けたアインシュタインは、二〇世紀の代表的偉人であり、知の聖者とされている。文句をつける者など誰もいない。だが、その理論が桁外れのものであるにせよ、いやだからこそ、この人物が居なかったらヒロシマもチェルノブイリも無かったのである。放射能後遺症に苦しんでいる人々にとって、アインシュタインはやっぱり偉人なのだろうか。

 言っておくが、僕は科学技術の発展そのものを誹るつもりはない。ヒトとは宿命的にそういう脳をもった動物なのであって、二一世紀に滅亡するにせよ、行くところまで行くだろう。アインシュタインの業績は滅亡の瞬間まで偉大なのだ。ただ僕は、科学技術の独創的な業績というものの意味について、少し考えてみたいだけなのである。いま求められている真の知とはいったい何なのか……。

◎人類への貢献か

 さすがに、ノーベル賞授与機関のほうでも、疑問の声があがってきたようだ。進歩主義との関連が討議されているかどうかは知らないが、受賞者が人類に貢献しているかどうかの疑問は示され始めた。

 評判が最低なのは経済学賞である。これは一九六九年から始まったが、賞創設者ノーベルの曾孫なる人物が、ノーベル賞の理念にふさわしくないと抗議しているらしい。

 それもそのはず、一時世界中を荒らし回った米国系ヘッジファンドLTCMのブレーン二人はともにノーベル経済学賞の受賞者だった。LTCMの一九九五、九六年の年間利回りは、ともに四〇パーセントを上回ったという。つまり、地球上の貧乏人たちから合法的に金をむしりとるのが彼らの知の目的だったわけだ。が、九八年のロシア経済危機を読み切れず、LTCMはあっけなくつぶれてしまった。ということは、ノーベル賞受賞者のあの二人は、博打打ちと変わりなかったのである。日本でまだ経済学賞の受賞者がいないのは、幸いというべきかもしれない。

 だが、問題は経済学賞だけではないのだ。考えてみれば当然のことだろう。オリンピックの金メダルと違って、公開の競争が行われているわけではない。いかに世界中から推薦を集め、綿密な調査にもとづいて選考しているといっても、現代の細分化された諸分野の功績をどう比較し評価するというのだろうか。毎日論文が量産され、成果報告が溢れかえる現代。専門家にとってさえ、隣接分野の独創性を見抜くのは至難の技である。真に公平な審査など、どだい無理な話なのだ。つまるところ政治力で決まるということになれば、世間一般の退屈な出来事と変わらない。

 ……ああ、振り返ると昔はよかった。湯川さん、朝永さんの受賞に感動しない日本人などいただろうか。彼らこそまさに偉人だと、素直に信じられた時代だったのである。

 だがやがてだんだん訳が分からなくなってくる。ついに、どこかの国のギョロ目の宰相もノーベル平和賞を奪取してしまった。平和賞受賞者はマザー・テレサのような人だけではないと、みんな思うようになった。

 そのうち、勇ましく爆弾の雨を降らせるブッシュさんあたりが、テロ退治でノーベル平和賞に輝くのではないかな。

 ダブル受賞。両氏の図抜けた業績に心から敬意を覚えつつも、マスコミの常軌を逸した騒ぎぶりに、首筋を冷たい寒風が吹き抜けた日々であった。