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階段

 「ああもぉー、何てツイてないのよ」

 エレベーター前の「調整中」という札を、絵理は思い切りにらみつけた。

 あとは九階のゼミ室まで、きのう捻挫した左足首をかばいながら階段を昇るしかない。ゼミは二十分前に始まっている。教授は五分の遅刻でもねちねち絡んでくるし、三十分遅れたらレポート提出だ。

 だから今朝は早めにアパートを出た。でも思った以上に痛い。三歩ごとに休み、いつもより三十分も余計にかかってしまった。

「あのとき由紀が外さなかったらなぁ」

 階段を年寄りの亀みたいに這い上がりながら、また同じ愚痴がでる。

 チアリーダーの大学対抗戦は二週間後。特訓中、いつも確実に受け止めてくれる由紀のタイミングが一瞬ずれ、ジャンプした絵理は着地でひどく左足首をひねってしまったのだ。もっとも、原因は絵理の回転不足にもあったのだが……。

 いずれにしても、ツイてない。絵理が力なく溜息をついた、そのときだった。駆け下りてきた男子学生のデイパックが腕をかすめる。アッと思わず身をすくめた手から、テキストとノートを入れたケースが下の踊り場まで弧をえがいた。

「ちょっと待ってよ、バカ」と叫んだが相手は気づかず、そのまま去っていく。

 あたしに怨みでもあるっての?

 すべて憎たらしくなって、でも拾いに下りようと慌てて向き直ったとき……ズキインときた。左足の先から脳天まで、青白い火花が駆け抜ける。へたへたと、しなびた野菜のように、絵理は階段にしゃがみこんだ。

 これは幾らなんでもひどすぎる。昨日から、ゼッタイ泣かないぞって、ずっと我慢してきたのに。

 ――「ハイこれ」

 泣きべそ顔の絵理の手には、もうさっき落としたケースが戻っている。前に立っているのは太った狸そっくりの、六十くらいのオジサン。「○○ビル管理」の制服を着ている。

 足首をさすっている絵理に、広い背中が差しだされた。「おぶってやるよ」

 ちょっとためらった。下はGパンだが、上はTシャツしかつけていない。オジサンにおんぶなんて……。でも、この足じゃあね。まっ仕方ないか、このさい。

 オジサンは一段一段、ゆっくり着実に昇っていく。ラクチン。ただ、もうちょっと急いでくれないかな。

「こうして歩いてると」オジサンは息づかいを荒くしながら話しかけてきた。「妹を思い出すよ。妹は……足が悪くてね……よくおぶって……やったもんさ」

「ご病気だったんですか」

「小児麻痺。昔ね……はやったんだよ」

「…………」

 九階についたとき、絵理は急に恥ずかしくなった。皆にこんな姿を見られたくない。

「どーも」とだけ言って、ゼミ室に向かう。ドアを開けるとき振り返ると、オジサンが壁に両手をつき、激しく喘いでいる姿がちらっと見えた。

 一週間すぎた。

 絵理は体育館で、仲間の特訓を見ている。対抗戦も出られないし、ほんとにユーウツ。もしこのまま足が治らなかったら、どんなに落ち込んじゃうだろう……。

 もしかしたら、あのオジサンの妹さんも、こんな気持ちだったのかな。落ち込んでる妹さんを、オジサンはいつもおぶってたんだ。放っておくと、どこまでも落ちていきそうな妹さんを、毎日毎日、一段一段、力一杯押し上げてたんだ。

 ケースを渡してくれたときの真ん丸な笑顔。精魂つきたように喘いでいた姿。それらがありありと浮かんできて、絵理は真っ赤になった。

 明日、遅刻して叱られても、同じ時間に階段で待っていよう。ほんとに助かりましたって言うために。