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情報学ことはじめ

◎情報学者って何者?

 大学というところは、専門が何よりものを言う。専門(あるいはちょっと気どってディシプリン)がぐらついていると迫害される。専門の内容自体がどれほど世間離れしていようと、一般人には計り知れぬふかーい専門研究に身を投じていないと学者として認められないのだ。専門馬鹿とかタコツボ変人という言葉は大学には存在しない。

 それで僕は「情報学者」ということになっている。ではいったい情報学とはなんぞや。――これに答えるのは少しばかりシンドイ。なぜなら個人的来歴と関係があるからだ。

 かつて僕はメーカーのコンピュータ研究者であり、情報〃工〃学者だった。これは押しも押されもしない専門である。いまや世界中に、情報工学者やコンピュータ研究者は掃いて捨てるほどいる。ご多分にもれず、僕もその中の細分化された一分野の「プロ」であり、若い頃は一生懸命に論文や特許などを書いていた。

 三十歳を過ぎて、その分野で学会の座長をつとめるようになった頃、もっと他のことを勉強したくなった。このまま同じ分野で研究を続けるのは、どうも脳細胞がさみしすぎる。後輩にも優秀な人物がでてきた。あとは彼らにまかせておけばいい。メーカーの管理職というルートは人間関係が厄介だし、肉体的・精神的にきつそうだ。そこで転職を決意したのである。

 転職先の明治大学法学部は実に面白いところだった。詩人の大岡信、飯島耕一、俳人の川崎展宏、哲学者の中村雄二郎、経済人類学者の栗本慎一郎など多士済々、まるで梁山泊である。彼ら先輩文人たちの話を聴いているだけで、世界が広がっていくような気がした。

 教養課程の学生にコンピュータの初歩を教えながら文学、哲学、社会学等々の書物を濫読し、僕はコンピュータ文人を気どっていたのだが、そのうち先輩文人の紹介でときどき原稿を書くようになった。「コンピュータと人間」「情報機械と欲望」といったテーマの思索的雑文である。むろん自分としては、前人未踏の分野だという密かな自負があった。なぜなら、ゼニにもならぬそんなアホな研究は誰もやらないに決まっているからだ。

 そこで専門は情報文化論とか情報社会論とか、適当に名乗っていたのだが、だんだん面倒になって「情報学」に決めた。シンプル・イズ・ベター。こうして情報学者が誕生したのである。

 さて、いま僕は、二〇〇〇年に発足した東京大学大学院情報学環というところで教えている。「環」というのはネットワークのことで、東大初の文理融合・領域横断型の学際的大学院だそうだ。

 ということは、どうやら二一世紀になって、世間が本気で情報学という新分野を認めはじめたらしい。かみ砕いて言えば、パソコンとインターネットの普及で、誰もがIT(情報技術)と無縁ではいられなくなったわけだ。いまや文系の学問も、否応なく情報と関わらざるをえないのである。

 だから情報学は、以前からある情報工学(情報科学)とは違って、理系だけの学問ではない。文系もふくむ総合学なのである。

 とはいえ、その内実はというと、ちょっと心細いのだ。確かに文系でも情報に関連する学問分野らしきものはある。情報法学、情報経済学、情報社会学などだ。それぞれ、インターネット上の著作権、電子商取引、オンライン共同体等といったテーマを扱っている。だがそれらはあくまで法学、経済学、社会学の一分野であって、概念も方法論もそれぞれ別々である。つまり、文系の情報学には統一的な体系があるわけではない。ここが、情報工学とは決定的に違うところなのだ。

 ばらばらな関連学問を寄せ集めて「学際情報学」と称することはできるだろう。それも二一世紀には有用な知のあり方かもしれない。だが、では「情報学者」はどうなのか。その脳のなかは幕の内弁当なのか……。

◎「普遍主義」対「相対主義」

 とんでもない話である。情報学とは、文理にまたがる二一世紀の新鮮な学問体系でなくてはならないのだ。少なくとも、僕はそう主張したい。

 まずは、情報学の系譜を振り返ってみよう。「情報」という言葉は「情況報告」の略で、軍隊用語だそうである。だが学問的概念としては、二〇世紀前半、物理学をはじめ理系の学問から出現した。当時は量子論や相対性理論の誕生にわく物理学の黄金時代で、宇宙には物質とエネルギーしか存在しないと考えられていたのだが、そこへ第三の存在として情報がまかり出たわけだ。

 典型例は量子論の不確定性原理である。微粒子の位置と速度のどちらかを測定しようとすると、かならず他の一方が不確定になってしまう。これは微粒子の側の問題ではない。観測する人間の側に問題があるのだ。それまで観測者はまるで神様のように世界を精確に認知できると信じられていたのだが、見事に裏切られてしまった。もはや、観測し認知する行為はつねに透明ではない。「情報」の登場である。同時に、「世界を認知し情報を処理する存在」としての生物が脚光を浴びることになった。

 こうして、一九四〇年代に情報工学(情報科学)が誕生したのである。シャノンの情報理論、ウィーナーのサイバネティックス、フォン・ノイマンのデジタル計算機という三役揃い踏み。それぞれコミュニケーション、コントロール、コンピュータに対応し、「3C」などと呼ばれて、大いに注目を集めたのである。

 ところが、そこには難題が隠れていた。情報とは生物による認知活動から生まれるから、「意味(価値)」と関わっている。生物にとって意味のあるものだけが、情報となるのだ。だが理系の学問ではそれを扱う伝統がない。そこで情報理論はスッパリ意味を切り落としたし、サイバネティックスは生物を機械とみなした。またコンピュータはもっぱら高速計算機械となっていった。要するに理系の情報学には「意味がない」のである。

 では文系はどうか。文系の学問には(分類学である図書館情報学をのぞき)情報学という分野はない。一番近いのは記号学・記号論だろう。これはまさに正面から「意味」を扱う学問だ。となれば、理系の情報工学と文系の記号学とを融合すれば情報学のベースができるのではないか、と考えるのが人情だろう。

 そして実際、一九八〇年代に「意味」という難題とまじめに取り組んだのが、人工知能の研究者だった。コンピュータに英語や日本語の文章を理解させること。人間と会話させること。それが第五世代コンピュータ開発計画の野望だったのである。

 ところが、ここで二つの学問体系が火花を散らすことになった。情報工学は普遍主義である。文化相対性とは相性が悪い。英語だろうと日本語だろうと、あらゆる言語に共通の意味処理方式を追求する。端的にはチョムスキーの普遍(変形生成)文法が理論的なベースとなる。

 一方、ソシュールの記号学は相対主義だ。絶対的・普遍的な意味体系を否定する。それぞれの言語が恣意的に世界を分節化し、世界を構成するというのだ。このエレガントな理論が、ポストモダンの哲学(構造主義・ポスト構造主義)や文化人類学を生み、現在のカルチュラル・スタディーズやフェミニズムにいたる滔々たる思想潮流の淵源となったことは言うまでもないだろう。

 はからずも人工知能研究は普遍主義と相対主義とがぶつかる戦場となった。結果はどうだったか。――第五世代コンピュータ開発は失敗した。エンジニアたちは(自分では気づいていないが)相対主義に敗れたのである。

◎生物としてのヒト

 人工知能研究が挫折したからといって、理系のモダンな知が失速したわけではない。それどころか、情報工学は相変わらず圧倒的な隆盛ぶりをみせている。それはあらゆる知をデジタル情報として取り込み、巨大なITワールドを構築しつつある。何しろ、花盛りの新古典派経済学さえ、金融工学に変えてしまうほどなのだ。

 一方、勝ったはずの文系ポストモダンのほうはどうも景気が悪い。記号学にはかつてほどの人気がなく、記号消費とやらの大騒ぎはバブルと消えた。西欧中心の普遍主義が克服されたことは大成果だったが、現代の諸問題(テロ、環境、経済グローバル化など)に対する批判はどうも迫力がない。「絶対的根拠の不在」を語る理論ゆえ仕方がないことだろうか。

 いやむしろ、日本のポストモダンが衰退した主要因は、現実を動かす理系モダンの力量を甘く見たことである。

 十年あまり前、僕は記号学の観点から徹底的に人工知能を批判する本を書いた。だが、多くのポストモダン学者は「(機械に言葉が分からないなんて)当ったり前でしょ」と無視したのである。ああ、情けない近視眼たちよ。第五世代コンピュータ開発には五百億円もかかったのだ。文理の裂け目は大きい。彼らが高等遊民として自閉的な「テクストの快楽」に耽っているあいだに、巨大な資金と人員が動き、世界は理系モダン一色に塗りつぶされていくのである。

 まぁ、工場でぶっ倒れるまで働いた経験をもつ僕と純粋培養学者の彼らとでは、世界観が違うのは当然だ。だが、ポストモダンの真髄がモダンの圧制に対する批判の刃だとすれば、彼らには知識人の看板を下ろして貰いたい。

 ……などと、ちょっと肩に力が入ってしまった。ともかく、いま探究すべきなのは、文系の相対主義と、理系の普遍主義とをつなぐ新たな回路なのである。総合的な情報学はそこから始まるはずなのだ。

 むろん、新たな学問体系が一朝一夕にできるはずもない。だが、一つだけ確かなのは「生物としてのヒト」がヒントになるということである。もはや「ロゴスをもつ人間」というかつての前提ではなく、人間のかわりに生物、言語のかわりに情報から出発しなくてはならない。

 前述のように、情報とはもともと、世界を認知する生物と一体の概念である。われわれヒトと同じように、カエルもアリも世界を「意味」づけ、分節化している。ご存知フォン・ユクスキュルの環世界(Umwelt)だ。いま僕の目の前にある机も、アリにとっては食物をさがすための広い平原だろう。当然ながら両者の相違は、アメリカ人と日本人の分節化の相違とは別の次元にある。つまり、民族的・言語的な相対性を勘定に入れても、ヒトとしての普遍性は存在する。絶対的根拠の不在を述べ立てるだけでは不十分なのだ。

 考えてみると、チョムスキーはこのことを主張したのである。ヒトは複雑な言語を運用する生得的な能力をもつ。そこまでは正しかった。問題は、その学派が英語だけを普遍言語のように見なし、硬直した数学的モデルの森に迷い込んでしまったことだ。

 「生物としてのヒト」という観点は、近ごろ進展いちじるしい分子生物学と動物行動学によって強力に支持されている。DNAレベルでは、チンパンジーはゴリラよりヒトに近い。ホモサピエンスとは要するに、十数万年前にアフリカに誕生した変わったサルだ。進化の偶然で異常に発達した大脳新皮質を持っているものの、別に特権的な生物でも何でもない。

 ただし、ヒトという生物は、思考し、社会を構成し、機械を作りだす。文理融合の情報学の研究は、まさにそういうダイナミズムの解明に向かうのである。