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ヨーヨー君と気球

 ヨーヨー君は肥っている。大学受験を半年後に控えて、才色兼備のアリサが通う高校にもとげとげしさが牙をむき始めた。でもアリサの教室がまあ平穏なのは、まったくもってヨーヨー君のおかげではないだろうか。

 ぱんぱんにふくらんだ頬っぺたとおでこ、そのあいだの小さな目と口。頭全体がいわば惑星で、巨大な太陽を思わせるまん丸な胴体にちょこんと載っている。そんなヨーヨー君の宇宙的肉体は、いわば現代の悪、ストレスや憎悪を吸いとる「いやし玉」なのである。

 いつも黙ってにこにこしているヨーヨー君のことを、少し知恵遅れではと陰口をたたく生徒もいる。そういう下品な連中を、アリサは侮蔑のひとにらみで黙らせてしまうのだ。雌鹿みたいな濡れた瞳と水蜜桃そっくりの乳房。それゆえアリサは、全男子生徒が発する欲望と阿諛追従のシャワーをざぶさぶ浴びているのだが、ヨーヨー君の側に寄ると、まるで体内の水分がとめどなく吸いとられていくような気がするのである。これはむろん、アリサのなかに高慢な邪悪さがたっぷり溜まっているためだったが、アリサ自身はまったく気づいてはいなかった。

 ともかくアリサはヨーヨー君が気になって仕方がない。その時価一億円の眼差しは、きれいにそろった睫毛の下からヨーヨー君の分厚い脂肪層をサッと撫でまわす。さりげなく近づいて甘い息を吹きかける。ところが、アリサの乳首のうずきも何のその、ヨーヨー君はいつも泰然自若なのだ。

 あるとき事件がおきた。ヨーヨー君が恋におちたのである。

 残念ながら相手はアリサではなかった。なんと〃気球〃なのである。科学部が観測のために使っている気球、てっぺんから四分の三があざやかなオレンジ色で、残りの下側が銀色に輝く巨大な気球。

 ヨーヨー君は例の通り何も言わない。ただ窓から、校庭から、屋上から、ぽぁーんと口をあけ、空をただよっている気球を眺めているだけ。だがアリサだけはすぐに異変を察知する。

 「ね、ヨーヨー、あれに乗ってみたいんでしょ。ちがう?」

 いつも眠ったような目をしているヨーヨー君は、初めてアリサの顔を正面から見つめ、ぱっちり目を見開いてこくりと頷いた。

 翌日、アリサは科学部の部長をしている秀才のケンジに頼みにいった。ケンジは、アリサにこれまで無視され続けたうらみもあり、模擬試験で負けたくやしさもあり、あれは普通の人間をのせるための気球だ、ヨーヨーみたいな化け物は体重オーバーでとても無理だと言い張ったが、なに馬鹿なこと言ってるの、それって差別になるよ、だめなら測定機械を下ろせばいいじゃないと反論するアリサの水蜜桃のふくらみが怒りで勢いよく上下し始めると、ヘナヘナとだらしなく承知してしまった。

 その日はよく晴れ上がった。

 ケンジはニヒルな作り笑いを浮かべながら、それでもアリサの頼みに応えられるのが嬉しくていそいそ準備をし、下級生に偉そうにあれこれ命令を下し、気球はやがて勢いよく膨らみ始めた。やや緊張した顔つきのヨーヨー君がボールのような身体を座席に押し込み、みんなの歓声のなかで気球がゆっくり上昇を開始したとき、アリサはどうかしてヨーヨー君が一目、自分のほうを見てくれないだろうかと無駄な歯ぎしりをした。

 やがて気球は高く、高くあがった。

 青い空。オレンジと銀の球の下、はるかに浮かぶもう一つの玉。地上をおおう無意味で残酷な悲しみ、それらの底知れぬ重量をことごとく引き受ける、不思議な天の一点。

 周囲のざわめきも耳に入らず、アリサは少し涙ぐみながら立ちつくしていた。今ようやくアリサには分かったのである。ヨーヨー君はもしかしたら、二度と地上に戻ってこないということを。つまり、この世の人ではないということを・・・。