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基礎情報学/ネオ・サイバネティクスの研究,論考発表サイト
 

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現実は鵺のごとく

◎現実がヌッと顔をだす

 僕たちを、何かが十重二十重にネバネバと囲繞している。それは「現実」というものなのだろうか……。

 だがその拘束は目に見えないし、音もたてない。だから拘束など存在せず、人間は根源的に自由なのだと強弁することもできるだろう。僕たちは前進できるのだ、自らの力で歴史をつくれるのだと。――そう、実存哲学者サルトルはそう言った。いや精確には、一九六〇年代の日本には、サルトルがそんなことを言ったと信じた純朴な若者が少なくなかったのだ。

 だが、その筋の専門家に言わせると、これはオクレタわが国の話である。一九六八年の五月革命のとき、フランスではすでに、サルトルの実存主義をレヴィ=ストロースの構造主義が圧倒しつつあった。後者によれば、人間は自由意思にしたがって未来へ前進しているというより、むしろ言語や制度などの社会的構造に組み込まれているという理屈になる。やはり拘束はあるのだ。

 もっとも、たとえ根源的自由が否定されても、社会的構造をどう批判的に捉えるかという問題は残る。その後の日本では、せっかくの構造主義も消費文化のお祭り騒ぎとなってしまったけれど……。

 さて、連載テーマである情報学の話題に入ろう。繰り返し述べてきたように、僕たちはオートポイエティック・システムである。だからある意味では、確かに「根源的に自由」だとも言えるのだ。人間の心的システムは、外部から拘束されることなく、「思考」という構成素を再帰的に産出しつつ、完全に自律的に作動している。それがオートポイエティック・システムの定義というもの。ゆえに僕たちはいかなる妄想も持てるのであって、エロスの精みたいなアイドル・タレントの愛人にもなれるし、リストラがらみで無理難題を押しつける職場の上司を罵倒することもできるのだ。だがそんな無限の自由はあくまで、心的システムに宿るひそかな観察者にとってだけの話。僕たちが参加している社会システムの観察者にとっては、残念ながらそうではない。

 いったいなぜか?――情報学では社会も心と同様、オートポイエティック・システムだ。そこでは再帰的に「コミュニケーション」が産出されている。コミュニケーションの素材を提供するのは個々の社会構成員の心的システムだが、そこでは一種の選択がおこなわれ、不適切な素材は除外されてしまう。たとえば、アイドルへの愛の言葉や上司への罵りは、コミュニケーションの素材とはなりえないのである(さもなければ、その社会システムは崩壊してしまうだろうから)。

 前号でのべたように、個々の社会構成員の心的システムは社会システムの「下位」にあり、拘束されている。つまり、社会的視点に立てば、個々の人間の心は自律的どころではなく、「アイドルのファン」とか「上司の部下」といった役割を、まるでロボットのごとく果たしているだけなのである。

 幸か不幸か、僕たちはふだん、あまりそういう階層/拘束関係を意識していない。だが実は、この階層/拘束関係のおかげで、複雑きわまる社会メカニズムが整然と運行されているわけだ。前述のごとく、僕たちには原理的に、未来のことも他人の内面も分かるはずはない。真の情報伝達など不可能なのだ。にもかかわらず、この階層/拘束関係がもたらす擬制のおかげで、他人と「コミュニケート」したような気になれる。明日の世界の様子も、およそ予測がたてられるのだ。

 むろん、逆の効果もある。いったん視点を切り替えると、急に自らをしばる拘束がヌッと顔をだすのである。自分は無名のファンでしかなく、上司に口答えすることもできない哀れな存在。ああ、まさにそれが「現実」というものだ。セ・ラヴィ……。

◎機能的に分化する社会

 社会を「コミュニケーションを産出するオートポイエティク・システム」と捉えたのは、理論社会学者ニクラス・ルーマンである。ユルゲン・ハーバマスの論敵であるルーマンは九八年に死んでしまったが、その評価は近ごろ高まる一方だ。この爛熟した時代には、市民の自由な対話といった図式より、クールなシステム論図式のほうが、しっくりくるのかもしれない……。

 ルーマンは、全体社会を、機能別に分化した複数のサブシステム群の集まりとみなす。サブシステムには、経済システム、法システム、学問システム、家族友人システムなどいろいろあるが、いずれもオートポイエティック・システムであって、そこではコミュニケーションが産出されている。たとえば、経済システムのなかでは企業取引、法システムのなかでは訴訟沙汰、学問システムのなかでは学術論争、家族友人システムのなかでは恋愛事件などといった、機能別のコミュニケーションが、それぞれ生成・消滅しているわけだ。

 あるコミュニケーションがどのサブシステムに属するかを判断するために、「二値コード」が用意されている。「支払い/不払い」「適法/違法」「真/偽」「好き/嫌い」などだ。もし当コミュニケーションが専ら「支払い/不払い」といった区別をベースにしている場合、それは経済的コミュニケーションということになる。同様に、「適法/違法」「真/偽」「好き/嫌い」の区別をベースにしているなら、それぞれ法的、学問的、愛情的コミュニケーションということになる。

 ――粗っぽい。だが、なかなか面白い発想ではないか。ルーマンの二値コードは、「社会(世界)の見方」の基準をあらわしている。僕たちは社会(世界)を、経済、法、学問、愛情など、さまざまな視点から眺めることができる。それらは互いに相対的で、どちらが上でも下でもない。要するに、社会(世界)というものを、統一的・超越的な視点から鳥瞰し、絶対的正しさをもって論評することなど不可能だというわけだ(こういうシニカルな調子が、若い世代に受けるらしい)。

 いうまでもなく、これはポストモダンの相対主義をふまえている。神が死に、理性ももはや全てを整合的に語ることなどできない、というあの……。

 とはいえ、凡庸な相対主義の落とし穴にはまらないところがルーマンのエラさなのである。ポイントは、複数の見方同士が互いに批判しあえるということだ。

 ある視点から社会(世界)を眺めているとき、決して見えない部分がある。たとえば、経済的視点から物事を論じている場合、「研究費かければノーベル物理学賞とれるってもんじゃない」とか「あなた、あたしを裏切っておいて、慰謝料ですまそうっていうの」などと叫んでも何の効果もない。経済システムのなかでは、貨幣や支払いの有無がコミュニケーションのベースなのであって、そのベース自体の妥当性は議論不可能なのである。ノーベル賞うんぬんは学問システム、裏切りうんぬんは家族友人システムのなかで語られるべき言葉なのだ。

 だが一方、それぞれのサブシステムが固有の盲点をもっているということ自体も、サブシステム同士の相互批判によって明らかになるのだ。経済システムのコミュニケーションに参加している人々は、自分たちの議論に決定的な盲点があること、つまり、「世の中、カネだけじゃない」ということを知ることができる(近ごろ、そうでない人がめっきり増えてきたようだけれど)。

 この「二次観察」の議論はなかなか面白い。僕は社会学者でもなく、ただの普遍原理オタクにすぎないが、これには思わず膝をたたいたものだった。

◎マスメディアのつくる現実―像

 ルーマン社会学とは、ポストモダン相対主義を逆手にとった一種の普遍主義である。何とも巧みな理論であって、わが情報学でも大いに参考にさせて頂いた。

 とはいえ、僕はルーマン教の信者からはほど遠い。彼らは難解きわまるルーマンの著書を聖典のごとく精読し、微に入り細を穿って注釈を加える。おそれ多くもルーマンに反論したりすれば、これはもう不敬罪だろう。だが幸い、僕は信者ではないので、恐れるものは何もない。

 もともと、ルーマン社会学と情報学とでは、学問的背景がまったく異なるのだ。オートポイエーシスは生命思想の理論だが、ルーマン社会学はその概念装置を利用しただけで、生命とはとりあえず無関係である。一方、わが情報学は、生命から出発してヒトという生物のつくる社会にいたり、そこで情報やメディアやコミュニケーションなどを研究する、ドンキホーテ的企てなのである。

 両者のもっとも大きな相違の一つは、マスメディアの扱いだろう。ルーマン社会学におけるマスメディアは、経済や法律などと同じ機能別のサブシステムである。肝心な点は、ルーマン社会学ではマスメディア・システムも他のサブシステムと並列に位置づけられること。これはルーマンに言わせれば当然だろう。各サブシステムのあいだに上下関係がなく、相互に批判できるということが理論の核心だからだ。

 だが、わが情報学では、マスメディア・システムは経済、法律、学問、家族友人などの諸システムの「上位」におかれるのである。このことは、マスメディア・システムが、社会のあらゆる機能に拘束を加え、ひいては、すべての人々の心に拘束を加える、ということに他ならない。これはいったい、何を意味するのか……。

 繰り返しになるが、社会は僕たちの心に「現実」という拘束を加える。オレは根源的に自由なのだと言い張って赤信号を無視すれば、車に轢かれてしまう。いったん事故をおこせば、交通法規だの、保険手続きだの、僕たちが実はおそろしく煩雑な拘束に取り囲まれていることが一挙に明らかになる。

 近代社会の機能は複雑に枝分かれしているし、それが与える拘束=現実は複雑怪奇である。誰一人、その全貌を明示的に把握することなどできない。まったく、この拘束=現実はまるで鵺のごとき存在である。論理的に首尾一貫しているわけでもなく、ただネバネバと僕たちを囲繞し、しめつける。

 これは耐え難い不安をひきおこす。そこで不安におののく哀れな僕たちに、現実の「像(イメージ)」を見せてくれるのがマスメディアなのである。それはかつて、社会(世界)を統一的に説明してくれた古代神話の代用品のようなものだ。

 僕たちは朝、新聞をひろげる。そこには社会(世界)の縮図がある。テレビのスイッチを入れてみよう。経済番組、社会報道番組、文化番組は、それぞれ、経済的、法的(愛情的)、学問的コミュニケーションに関する論評であり、メタ・コミュニケーションに他ならない。情報学によれば、これがマスメディアのつくる「現実―像」なのだ。そのおかげで、僕たちは曲がりなりにも社会(世界)全体のイメージをつかみ、落ち着くことができるのである。ありがたいことだ。

 だがしかし、である。裏返してみるとこれはまた「新たな拘束」ではないか。僕たちはマスメディアのつくる擬制的な現実―像から逃れることはできないのだ。

 もともとマスメディアというのはオートポイエティック・システムである。自律的にマス・コミュニケーションを産出しているだけなのだ。だから僕はマスメディア批判者に言うのである。「テレビが真実を伝えてないなんて責めたってだめだよ。そもそも真実なんて、どこにあるんだい」と。