◎オレが怪人?
鼎談をした。相手は文芸評論家の加藤典洋さんと独文学者の池内紀さんで、テーマは「新しい読書人は生まれるか?」である。
学生があまり本を読まなくなって久しい。近年の読書離れ、もっと言えば文芸書・学術書の売れ行き不振という深刻な問題を、新たな角度から話し合おうという企画だ。
僕の予想した通り、席は「いや、本なんて読まなくっても教養人はいる」とか「これからは新しいタイプの読書人が出てくる」といった明るい会話で大いに盛り上がった。
実際、もし誰かが真面目に「いま若者のまともな読書層はわずか○○パーセント。五年後には絶対△△パーセントまで落ちますよ」などと言い出せば、皆たちまち暗い顔になってうつむき、鼎談は五分で終わってしまうだろう。出席者としては、そうならないため、誠心誠意つとめねばならぬ。
さて、座談の内容はともかくとして(興味のある方は、別冊「本とコンピュータ」第5巻をお読みください)、その席で司会の加藤さんがしきりに僕のことを「怪人」と呼ぶのである。一方、池内さんは「大人」だそうだ。
大人というと、何となく人格円満、有徳のエラい人という感じがする。ウン、池内大人、これは文句なし。だが怪人はどうだろうか。怪人二十面相。オペラ座の怪人。怪人カリガリ博士。……どうもあまりエラそうではない。
イエス。僕はべつにエラくない。だがいったい、僕のどこが怪人なのだ? まず、怪人というのは、凄みがある風体でなくてはならぬだろう。真っ黒なマント、糊のきいた白カラーの陰から、妖気ただよう血走った目をランランと光らせているとか……。とすれば、僕に怪人の資格は全然なさそうだ。身なりはごく平凡だし、ときどきパソコンの画面の見過ぎで目が充血するが、そんなときは寝ぼけ眼になるか、居眠りをしている。
というわけで、加藤さんに抗弁してもよかったのである。だがただちに「いや、お前は外見はフツーだが中身がオカシイんだ」と反論されそうだったので、おとなしく黙っていた。推察するに、僕が五十歳を過ぎて小説を書き出したことが、怪人説の原因なのだ。
「西垣さんのいうことは分かるよ。でも普通ね、そんな気持ちになるのは十七、八のときなんだ」と、加藤さんは叫ぶ。
なるほど、そうかもしれんなぁ……。
十七、八歳の頃、僕は物理学者になろうかと考えていた。大学入学後、物理学で世界は語り尽くせないと気づいたので、コンピュータ・エンジニアになった。そしてソフトウェアの研究開発を十数年。
四十歳近くになったとき、情報化社会の行方がひどく気になって、メディア評論家に転身した。これはコンピュータ・エンジニアの世界では異例のことで、周囲は気が違ったかと驚いた。だがそれでも飽きたらず、五十歳を過ぎてまたまた……という次第。何と言われても仕方がない。
僕が小説を書いていると知ると、相手は大抵「へぇ、多才でいらっしゃる」と笑う。こちらは「いえいえ、ほんの素人芸で」と謙遜してみせる。Alas……。まぁそれでも「結構なご趣味で」とはっきり断言されるよりはましだ。どんなに下手クソでも、趣味かどうかは腕前だけでは決まらない。
世の中に多芸多才な人というのはいる。テニスの名手でスキーも玄人、英会話はペラペラ、ゴルフはシングル、おまけにワイン通のカーマニアで、凄腕の女たらし(これは芸か?)といった人物。いったいこの僕が、そんな人物に見えるというのか? 僕は確かに下戸の無芸少食、正真正銘の不器用人だが、そういう俗物から遠いことだけが誇りなのである。
とはいえ世の中には、本当に高尚な趣味をもつ人も居ないわけではない。モーツァルトを弾きこなす数学者とか、玄人はだしの絵を描く法律家だとか……。こちらは正直いって羨ましい。
一言、断っておこう。もし僕を「小説を書く情報学者」として、この種の「多才」の一人に分類しようというなら、残念ながらそれは真実から遠いのである。
◎アメリカはユダヤの約束の地
加藤さんの炯眼はさすがに凄い。僕が趣味で小説を書いているのではないことを、ズバリと見抜いてしまった。だいたい、高尚な趣味をもつエラい紳士を「怪人」なんて呼ぶだろうか。
僕の体内では、物理学も、コンピュータも、メディア評論も、そしてもちろん小説も、渾然一体の奇怪なアマルガムを形成している。
この連載で述べてきたように、僕は情報学者だ。とりわけ近年は、新しい情報学を建設しようと、毎日からっぽな脳味噌をふりしぼっている。そして僕にとって、情報学の研究と小説の執筆とは、大福餅の皮とあんこのごとく不可分なのだ。どちらをしくじっても、全体が駄目になる……。
少し説明しよう。
昨年刊行した歴史小説『1492年のマリア』(講談社)は、一種の寓話だ。そこでは実は「情報」が語られているのである。
誰でも知っているように、アメリカはいま、市場原理とIT(情報技術)と軍事力で、中東のみならず世界をまるごと支配しようとしている。旗を振っているネオコンという人々の中にはユダヤ系が多いようだ。ユダヤ系アメリカ人はアメリカの人口のうち二~三パーセントに過ぎないが、その影響力はハンパなものではない。何といっても、彼らは財力があるし、途方もなく優秀だからだ。
昔、僕がアメリカのスタンフォード大学でコンピュータの勉強をしていたとき、周囲には頭のきれるユダヤ系の学者がたくさんいた。NASAの科学者の半分以上はユダヤ系だと聞いたこともある。
冷戦終了後、彼らの多くは鍛え上げた論理的能力とITを駆使し、金融の世界に入っていった。核兵器開発のあとは、世界中から札束をかっさらうデリバティブ商品開発、というわけだろうか。
……間違えないでほしい。僕は低俗な「ユダヤ陰謀説」を唱えて彼らを非難するつもりなど、まったくないのだ。あれほど「ヒトという存在」特有の辛酸をなめた民族もいないが、にもかかわらずあれほど偉大な民族はいない。僕は深くそう信じている。
日本ではあまり知られていないけれど、ユダヤ人の悲劇はアウシュビッツだけではない。たとえば、帝政ロシア末期における迫害もひどいものだったという(「屋根の上のバイオリン弾き」はその物語)。それで一八八〇年代から第一次大戦にかけ、二、三百万人のユダヤ系難民がアメリカに移住した。この波と、第二次大戦のときのドイツ・東欧からの移住の波とが、物理学や情報科学をはじめアメリカの知の背骨をつくったのだ。前者と後者の代表がそれぞれ、サイバネティックスのノーバート・ウィーナー、コンピュータのジョン・フォン・ノイマンである。
まさにそういう人口移動の始まりこそ、一四九二年だった。アメリカ発見と、スペインからのユダヤ人追放とは、しっかりワンセットなのである。そう、この年に「(スペインからアメリカにいたる)グローバライゼーション」の幕が開いたのだ。
コロンブスが実はユダヤ人だったこと。出自をひたすら隠し、ひそかに迫害されるユダヤ人の約束の地を求めて航海し、ついにアメリカを発見したこと。……そんな経緯を思うと僕は胸がいっぱいになる。迫害はさまざまな怨念をうみだし、悲劇はユダヤ人だけにどどまらず次々に広がっていく。被害者が加害者にもなるのは、今のパレスチナを見ればわかるだろう。
◎コトバは伝わるのか?
問題は、金融資本や軍事研究といったグローバル・ポリティックスの次元にとどまらない。その奧には、一神教という宗教、さらにそれと一体化した「普遍論理」という巨大な問題が潜んでいる。
ご承知のように、言葉の意味は普通、文脈によって千変万化する。土着のローカルな言語は皆そうだし、さらに進化史を遡れば、動物のコミュニケーションは完全に状況に依存している(猿のボスが出すギャーという警戒音は、敵が近づいてきたという状況と組み合わさって意味をもつのだ)。
だが普遍論理とは、文脈や状況によらず、いつでもどこでも通用する特別な言葉のことだ。普遍論理で書かれたテクストなら、意味のゆらぎがなく、「正しい意味」が一義的に伝わる(はず)、ということになる。まさに「神の言葉」である。そしてここで飛躍をおそれずあえて言えば、神の言葉の世俗版こそ、コンピュータ言語に他ならない。
西洋の学問は、つねにこの普遍論理をめぐって構築と破壊とを繰り返してきた。神学しかり、哲学しかり、数学しかり、物理学しかり。……そして今はコンピュータ工学なのである。
ユダヤ人には、普遍論理の大家がやたらに多い。土地を追われる以上、金融や科学という、どこでも通用する財に頼るのは当然といえば当然だろう。
たとえば言語学者チョムスキー。この人物は正統なラビ(律法学者)の血をひくユダヤ系アメリカ人だが、その文法理論はすべての言語の背後に抽象的な同一構造(つまり普遍論理)があると主張する。そして、コンピュータを使った人工知能は、チョムスキー理論をベースに言語の意味を解釈しようとしたのだ。
というわけで、普遍論理というのは、僕のような普遍原理オタクには何ともいえない魅力を持っている。だがしかし、である。だからこそ、ここで立ち止まって考えなくてはならない。いったい、純粋な普遍論理など存在するのか? より端的には「コトバの意味」は相手に正しく伝わるのか?
――本格的に話し出せば長くなるが、とりあえずの答はノーである。わが情報学では、「コトバは本来伝わるもの」とか「人間はコミュニケートできるもの」といったオプティミズムはひとまず否定されてしまう。
情報学では、われわれ個々の心は「オートポイエティック・システム」として捉えられる。つまり心とは閉鎖系であって、そこではただ思考が再帰的に生成消滅しているだけなのだ。だから、伝わるのは「意味」というよりただの「刺激」ということになる。
もちろん、社会が存続している以上、何らかの意味共有がなされているのは当然だ。情報学では、それをむしろ、社会システムが心的システムに与える「拘束関係」として把握する。つまり、九月号、十月号で述べたように、社会的な情報伝達とは実は拘束関係であり、権力作用に他ならないのだ。
「市民の対話」という図式を信じている人々からすると、これはまことに意外だろう。「お前はコミュニケーションによる合意生成を信じないのか」と真っ赤な顔で怒る人も出てくるはずだ。
だが、待って欲しい。入り口は別だが、めざすところはそう違わないのだ。情報学は、アプリオリに「市民」や「対話」を前提とせず、むしろ冷たい「システム同士の関係」から世界の熱い苦しみを捉えていこうとするのである。
つまるところ情報学とは、普遍論理の延長上で二十世紀末に行き着いた、市場原理と科学技術とポストモダンのキメラ複合体に対する、ちっぽけな蟷螂の斧である。それを僕は毎日毎日、「本を読まない学生」に教えているのだ。ひそかに「聖母マリアの受苦(パトス)」を思いながら……。