◎記号論の逆襲
去年の五月、『記号論の逆襲』というアグレッシブなタイトルの本が出版された。表紙もなかなか挑発的である。黄色い地を背に、緑色の怪獣ゴジラがガオーッと牙をむきだしている。ユーモラスで悲しげなところがなぜか魅力的なのだ(正直いって、表紙は僕の趣味とは合わないけれど、内容は百パーセントおすすめです)。
編者は文化人類学者の山口昌男さんと美学者の室井尚さんのお二人。出版社は東海大学出版会だが、実はこの本、一九八〇年に結成された日本記号学会の二十周年記念事業として刊行されたのである。
なぜこんな物騒なタイトルをつけたのか?――室井さんによると、記号論とは「硬直した知のシステムに対していつも『逆襲』を仕掛けている、反システム的で超領域的な知の運動」だからだとのこと。ハハーン、なるほどね……。まさにその通りだろう。とはいえ、それだけかな、という気はする。やっぱり、もう一度記号論ブームが再燃するといいな、という本音もあるのではないだろうか。
率直に言うと、この僕自身にも同じ気持ちが皆無ではないのだ。思い返せば一九七〇年代から八〇年代にかけ、日本列島を記号論が席巻したとき、僕はまるでみずみずしい曙光が射してきたような感慨をもって、密かに憧れの目を向けていたのである。
僕はいわゆる全共闘世代の人間だ。個人的には左翼運動の権力志向的な面が嫌いだったが、大学紛争の嵐にはもろに巻き込まれ、マルキシズムの洗礼も受けた。周知の通り一九六八年の学生蜂起は世界的事象である。ただ、思想的な意味合いは国によって多少違っていた。
パリの学生解放区カルチエ・ラタンでは「構造が街に出た」などと言われ、サルトルにかわりレヴィ=ストロースらが現代思想界の巨星となりつつあった。六〇年代を沸かせたサルトルとレヴィ=ストロースとの論争は、後者の勝利に終わったわけである。だが日本では数年の遅れがあって、全共闘は「神田をカルチエ・ラタンにせよ」などと咆吼していたものの、学生のあいだでは、サルトルの実存主義的左翼思想のほうが依然として人気が高かったように思う。
さて、七〇年代に全共闘運動がポシャッたあと、僕も皆と同じように、やや複雑な気持ちをかかえて大企業のサラリーマンになった。そこへ颯爽と登場したのが、山口昌男さんを旗手とする記号論である。それはマルキシズムの陰鬱な雲を吹き払う爽やかな知の風だった。異化、祝祭、神話、両義性、周縁性、トリックスターなどといった新鮮な概念装置が、軽やかなステップを踏んで心のなかに入ってくる。大江健三郎さんの小説も、すっかり「読み解ける」気になった。
とはいえ、当時、僕はひどく忙しかった。まずは一人前のコンピュータ研究者になるために、休日返上で論文を書かなくてはならなかったのだ。おまけに、周囲にはその方面の専門家もいない。ただ自分で本を読むだけである。記号論に関する理解がそれほど深いものでなかったことは仕方がなかった。
実は記号に関する学問には記号論(セミオティクス)と記号学(セミオロジー)とがあって、両者は出自も内容もかなり異なったものである(もちろん、両者をつなぐ試みは大言語学者ロマーン・ヤコブソンなどによって種々なされているが)。記号論は、米国のプラグマティズム哲学者チャールズ・S・パースが始めたものだし、記号学はスイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールが創始者である。山口さんが紹介したのはどちらかと言えばソシュール記号学の流派だったのだが、それがなぜか「記号論」と呼ばれてブームになったので、話が余計ややこしくなってしまったのである。その頃の僕は、両者の違いさえはっきり分かっていなかったのだが、それでもともかく「キゴー大好き男」だったのだ。
◎こころの情報学
八〇年代の後半、僕はメーカーをやめて大学に移ったが、まだ記号論ブームは続いていた。折からのバブル景気で、売り手は合理性をこえて消費者をそそのかす論拠をもとめていたし、「記号消費」とか「ポストモダン」というのは大変都合のよいキャッチフレーズだったわけだ。
工場で過労のため倒れたことが転職のきっかけになったこともあり、モダン嫌いの僕は本格的にポストモダン思想に入れ込んだ。今でこそ、ポストモダニズムにやや批判的な立場をとっているが、わが思索者としての出発点はここにあるのだ(「思索者」――ああ、それにしてもウツクシイ響きですなぁ)。
少し脱線するが、蒸気機関がモダンで電子技術がポストモダンだなどというのは恐ろしく浅薄な議論である。確かに電子回路と神経回路が入り組むサイバネティクスには、どこかポストモダン風な臭いする。だがそれはサイバーパンクSFに毒された文学的迷妄だ。いったんコンピュータ・システム開発の現場に入れば、電子技術の本質がいかにゴリゴリのモダニズムの殿堂かわかるだろう。
さて、大学教師になって給料は少々減ったが、本を読む時間ができた。また中村雄二郎さんや市川浩さんといった著名なポストモダニストが同僚だったことも幸いして、だんだんと現代思想の系譜と広がりがのみ込めてきた。マスコミをいろどる記号消費ブームの軽薄さにはうんざりしたが、記号学・記号論とコンピュータ文明とのあいだの深い知的緊張関係についても、ジワリと分かってきたのである。
とりわけ僕を惹きつけたのは「コンピュータでヒトの心をつくる試み」つまり人工知能だった。鉄腕アトムをつくる野望である。
八〇年代、世界一の経済大国をめざしたわがニッポンは、国家の威信をかけて第五世代コンピュータ開発計画という大プロジェクトを発足させた。第一世代から第四世代までは素子の改良による量的高速化だけだったのだが、ここで質的な大転換をおこない、世界に冠たる人工知能コンピュータをつくろうとしたのだ(実際に開発したエンジニアたちはそんな野望から遠かったかもしれないが、世間はそう思いこんだのだ)。
ところで、「心」を持つとはどういうことだろう?――だいたい、目の前の相手が心を持っているかいないかなど、本当はよく分からない。だが、言葉を交わしていると、何となくそう信じられるようになってくる。だから、もしコンピュータが言葉を理解し、ヒトと会話できるなら、「心」ができたと言ってもよいのではないだろうか。
というわけで、エンジニアたちは一生懸命、言葉を理解する第五世代コンピュータを作ろうと奮闘努力した。そして無残に挫折したわけだが、失敗の理由をもっとも端的に説明するのは、ソシュール記号学に発するポストモダン思想だったのである(実際、身体性、異化作用、ノンセンスといった諸概念ほど、人工知能と相性の悪いものはない)。
人工知能の挫折について考えたり、書いたりしていた僕は、やがて妙な考えにとりつかれた。――コンピュータと「ヒトの心」とのあいだには、どうやら恐ろしく深い溝があるらしい。では動物はどうだろうか。動物には「心」は無いのだろうか……。
少年の頃、家で黄色いセキセイインコを飼っていた。毎日、小学校から帰ると大喜びで迎えてくれた彼女に心があったことを、僕は今でもけっして疑わない。ペットを飼っている方なら、だれでも賛成してくれるだろう。(実は、「動物に心があるか」というのは動物行動学の大問題である。最近の研究によると、哺乳類や鳥類では、概念の把握をはじめ、かなりヒトの心に近い働きが認められている。)
そこで僕は、機械の心、動物の心、ヒトの心の三者を相互比較した本を書いた。名づけて『こころの情報学』(ちくま新書)という。
◎生命記号論
『こころの情報学』を書き終えてからすぐ、僕は驚くべき書物に出会った。著者はデンマークの生物哲学者ジェスパー・ホフマイヤー、タイトルは『生命記号論』(青土社)である。びっくりしたのは、あまりに『こころの情報学』とそっくりだったからだ。表面的な一致ではない。用語も構成も全くちがうが、思考の方向がみごとに重なっているのだ。(この本は作家にもアピールするようだ。去年、研究会で紹介したら、出席されていた田口ランディさんの新作『セブン・デイズ・イン・バリ』の参考文献にあげてあった。)
ホフマイヤーと僕がともに注目するのは、記号あるいは情報のもつ「意味」である。生物とは「意味を解釈する存在」なのだ。
ホフマイヤーの『生命記号論』は、デンマーク語の原著が出版されたのが一九九三年だから、とても若い学問である。つまり、日本にかぎらず国際的にも、記号論ブームがいったん終了した後に誕生したわけだが、その射程はなかなか長い。いまや生命記号論は記号論復活のエースなのである。冒頭でのべた『記号論の逆襲』に生命記号論の特集が載っているのはその証拠なのだ。
ただしここで注意が肝心である。生命記号論は、ソシュール記号学ではなく、パース記号論の流れをついでいるのだ。まあ、これは当然のことだろう。もともとソシュール記号学の出発点は近代言語学だし、ヒトのつくる言語共同体を前提としている。一方、パース記号論は古代ギリシア以来のクラシックな伝統を受け継いでいる。ある記号が何らかの対象を代替(表現)するメカニズムを探究するわけで、そこには記号の意味を解釈する者が介在することになる。解釈者はべつにヒトでなくてもかまわない(動物のコミュニケーションにも応用できるから、動物記号論というものもあった)。ホフマイヤーはこれを一挙に拡張する。解釈者はウニだろうが、バラだろうが、いやそれどころか小さな受精卵でもいいというわけだ。受精卵はDNA遺伝子の「意味」を解釈して、生命体のタンパク質をつくりあげるのである。
さて、ここで一つ疑問が出てこないだろうか。ヒトの心とコンピュータとの違いはあまりに明らかだが、では受精卵とコンピュータはどう違うのか、ということだ。詩人でもない受精卵が「異化」とか「ノンセンス」などと縁があるのだろうか。受精卵はひたすら遺伝暗号を「機械的」に解読しているのではないのだろうか。情報科学は意味を排除する学問であって、僕は「機械で心を作れる」などという安っぽい技術オプティミズムを批判してきた。だが、いまや「意味解釈」はふたたび機械に近づくことになる……。
ご心配は無用。生命記号論は、コンピュータと受精卵とのあいだに明確な線を引く。ポイントは「歴史性」だ。受精卵にかぎらず、あらゆる生命体は固有の歴史を背負っている。人間は誰でも、地上に生命が誕生して以来三十八億年の進化の歴史、そして個体としての何十年かの歴史を持って生きている。そこが、歴史を持たないコンピュータとの本質的な相違点なのだ。
もちろん、生命体は習慣にもとづいて生存を続けるから、何らかのルールはあるように見える。記号(情報)の意味解釈は、たいてい同じようにおこなわれる。だが、そこには常に予想外の逸脱や誤り(ホフマイヤーはこれを「記号論的自由」と呼んでいる)が出現するのだ。だからこそ、三十八億年前のバクテリアから、現在の多種多様な動植物が進化できたのである。誤解を恐れずに言うと、生命記号作用には異化もノンセンスも含まれるのだ……。
こうしてホフマイヤーは、生命誕生以来の壮大な絵巻をぐいぐい描きだしていく。『生命記号論』は、粗っぽい隙だらけの本だが(たとえばナイーブすぎる道徳倫理観に苦笑する読者も多いだろう)、間違いなく感動的な書物なのである。