◎普遍原理オタクへの道
高校生の頃、物理が好きだった。
なぜかといえば――複雑に見える現象の奧にシンプルで美しい法則があるという事実、その神秘に深く魅了されたからだ。
……などとオゴソカに書いてみたいものだが、残念ながら僕の場合、少しばかり実情は異なる。
確かに一番得意な科目は物理だった。だが、今思うと、それは要するにモノグサだったからなのだ。他の科目はけっこう面倒くさい。暗記も必要だし、いろいろ努力を要する。一方、物理はいくつか公式さえ覚えておけばいい。それを応用すればどんな問題もたいてい解けてしまう。怠け者にとって気楽な科目だったのである。
というわけで、大学では応用物理を専攻した。当時、東大の応用物理には二つの専攻があって、物理工学専攻は物性物理学、計数工学専攻は数理情報学をおもに勉強することになっていた。ところで僕はあっさり物理学に見切りをつけ、計数工学を選んだ。理由は実験が面倒だと分かったこと。加えて、さすがに二十歳を過ぎて少しは利口になり、物理法則さえ知っていればこの世のすべての現象は分析できる、などというラプラス風の妄想を抱かなくなったためである。
そう、人間も社会も複雑怪奇だ。とうてい物理学だけでは手におえそうにない。では、コンピュータを使ったらどうだろうか。上手に数学モデルを駆使すれば、人間や社会を合理的に分析し、予定調和させることも可能ではないのだろうか……。またしても、モノグサゆえにそう考えたのである。そしていつのまにか、コンピュータ屋になってしまったのだ。
要するに、僕という人間は現象の細部にはあまり興味がない。ものごとの基本的な成り立ちを理解し、大ざっぱな様子さえ分かればすっかり満足してしまうのだ。大事なのはつまり、世界を支えている「普遍的な原理」ではないか。トリヴィアルな細部など、どうでもいい、忘れてしまえ、という次第だ。
これを「普遍原理オタク」という。究理の学徒といえばカッコいいが、漫画オタクやラーメン・オタクなどと同類かもしれない。
理系の人間は普遍原理オタクが多いのかというと、そうでもないのである。理系の仕事に抽象的ルールの理解能力は大事だが、機械好きな連中はむしろ細部にこだわる傾向が強い。パソコン・ソフト関連のこまごましたノウハウなども実によく知っている(あんな知識は、どうせ二、三年すると陳腐になってしまうのだが……)。
いうまでもなく、細部を愛する人たちを僕は尊敬している。しかり、「神は細部に宿る」ではないか。細かい具体物を見逃す人間に、世界の真実はとらえられない。それはよく分かっているのだけれど、少年の頃から染みついたモノグサ癖だけはどうしようもない。僕は何といっても、抽象的な普遍原理が好きなのだ。
◎生き物は予測する
社会や人間関係に普遍的なルールがあるかといえば、誰もが首をかしげる。だが自然法則となれば話は別だ。ニュートンの重力法則だの、アインシュタインの相対性理論だのを頭から否定するなら、病院送りを覚悟しなくてはならない。
科学者の仕事とは何だろうか。自然界にはシンプルな原理や法則が隠されていて、それを発見するのが自らの天職だと信じている科学者は現在でもたくさんいる。僕自身、こういう古典的な考え方が百パーセント誤りだなどと断定するつもりはないのである。しかし、情報学の観点からすると、少し違った考え方もできるのだ。
情報学者にもいろいろ居るが、まともな情報学者なら、世界をただ客観的に分析しようとはしない。世界を認知する生物と、認知される世界とのあいだの「関係」に注目するのが情報学なのである。
世界とは、所詮、われわれの知覚器官によってとらえられたものである。ではもし仮に、われわれが居なくなったとしたら、いったい自然法則は成立するのだろうか……。
誤解をふせぐために断っておくが、このことは、僕という個人が死ねば僕の主観的世界が消滅する、といった陳腐な意味ではない。主観と客観という難問は、昔から哲学者がさんざん考えてきたことである。ここでその話をむしかえすつもりはないが、たとえば、いわゆる「共同主観」という議論がある。主観的世界そのものが社会的に、したがってある意味では客観的に、構成されている。僕は日本語でものを考えているが、その日本語自体が社会的存在であって、主観的世界は客観的世界から独立ではない。僕の葬式の日にも、テレビは相変わらずふざけたお笑い番組をオン・エアし続けているだろう(少なくとも、そう信じる理由はある)。
情報学が提示するのは別の疑問だ。いったい、ヒトがこの地上に出現する以前、あるいは生物が出現する以前に、自然法則は存在したのだろうか、ということである。
われわれホモ・サピエンスの誕生はせいぜい十数万年前である。類人猿から分化したのは五百~六百万年前。哺乳類が地上の支配権を握ったのは約七千万年前。そして生物が発生したのはそのはるか昔、約三十八億年前のことだ。
ところでビッグバン理論によれば、宇宙の誕生は約百四十億年前のことだ。生物のいない闇と光の宇宙空間でも、物理化学的な自然法則はただしく成立していたに違いない。科学者なら誰でも、生物発生以前から宇宙に自然法則は成立していたと断言するだろう。だからこそ、ビッグバン理論で宇宙の年齢を計算できるのである。
僕ももちろん、その理論自体は肯定する。ただ、自然法則というのは、天下りに与えられる「真理」ではなく、ヒトという生物が作り上げたもの、より正確にはヒトが「仮説」として組み上げたものと考えるだけのことだ。宇宙の年齢も、仮説の上で算出したにすぎない。だいたい、ほんの数百年前には、宇宙は神様が何千年か前にお作りになったと皆信じこんでいたではないか……。
情報学では、生物の「予測」という行為の延長上に「自然法則」を位置づける。どんな生物も、何らかの予測をたてて生きている。カエルは宙に浮かぶ黒い点を見ると、餌のハエだと予測してとびかかる。オスのゴキブリは、フェロモンを嗅ぎつけると、近くに魅力的なメスのゴキブリがいると判断して興奮する。われわれヒトがやっていることも似たようなもので、それは週刊誌の宣伝を読めば一目瞭然なのである。いずれも、何らかの「情報」ないし「記号(兆候)」から、何らかのルールを仮定して行動するのである。
偉大な科学者が発見した自然法則も、つまりはこの「予測」の必要から見いだしたルールの一般化にほかならないのだ。高い塔の上から眼下の敵に石を落とすとき、大きな重い石は小さな軽い石より早く地上に落ちるだろうか? ――同時に落ちると予測するほうが、戦闘には有利だろう。このように重力の法則も役に立つのだ。
神から真理が与えられるという信念は震えあがるほど美しい。けれど、個別の小さな生における有用な体験と結びついた仮説こそが自然法則だ、という考え方もなかなか悪くないではないか。これはいわゆるプラグマティズム哲学の伝統に連なる考え方だろう。そして、前号で紹介したジェスパー・ホフマイヤーの生命記号論、さらにそのベースとなったチャールズ・S・パースの記号論は、この考え方を徹底したものだといえるのだ。
◎自然は習慣化する
パースは「自然には習慣化する傾向がある」とのべる。以前この言葉を読んだとき、普遍原理オタクの僕は腰をぬかすほど驚いた。
「習慣」とは何だろう。深酒の習慣。喫煙の習慣。昼寝の習慣……。習慣というのは、われわれが自分で勝手に決めた、一種のゆるやかなルールのようなものではないか。常識によれば、自然法則とは、もっと厳正なるもののはずである。
「客観的に存在する自然」を考えている限り、パースの自然観はまったく理解できない。だが前述のように、自然とは、実は生物の知覚器官によってとらえられたものなのである。つまり、自分の体で「意味」を解釈する生物とともに世界がワッと立ち現れるのだ。
パースが重視するのは仮説推論(アブダクション)である。たとえば、ある患者に発疹が出たとする。医者は、この患者がハシカだと診断する。つまり発疹という「記号(情報)」を解釈して、「病名はハシカ」という仮説推論をおこなったわけだ。もちろん、この診断は誤りかもしれない(単なるジンマシンの可能性もある)。だが、よほどの藪医者でなければ、たぶん合っているだろう。あるていど自由な解釈をゆるす記号過程、これがパースの記号論の中核なのである。
ホフマイヤーはパースの議論を一挙に拡張する。古今東西、あらゆる生物がおこなってきたのは、皆そういう記号(情報)の解釈行為だというのだ。そして、「生物はその存在自身で、習慣を獲得する自然の傾向を持っている」と断言するのである。
何とも、卓抜な指摘ではないか……。生物は環境から情報(記号)を受けとり、仮説をたてて予測し、行動する。予測が正しければ、その解釈は体内に記憶され、やがて「習慣=ルール」と化していくだろう。個人的な記憶だけではない。遺伝として、子孫に受け継がれていく記憶もある。つまり、有用な予測(情報の意味解釈)は未来に引き継がれ、そうでないものは忘却されていくのだ。
この情報学的ないし生命記号論的な構図は、あらゆる場面で同じだ。空中の黒い点にとびかかるカエルは、それがゴミなら空腹で死んでしまうが、ハエなら生き延びる(個体レベルでは識別能力の学習によって生きられるし、集団レベルでは識別能力をもつ個体が子孫を残せる)。メスのフェロモンに惹かれてうろつくオスのゴキブリも、ゴキブリ取りの偽フェロモン薬を避け、本物のメスを見つけられれば、めでたく子孫を残す。
われわれヒトも同様なのである。医者は、発疹からただしくハシカ患者を識別できるように修業するか、あるいは藪医者として廃業するかだ。科学者が自然法則の仮説を立て、実験し、検証していく作業も、基本的にはこの構図の中におさまってしまう。
ヒトをふくむあらゆる生物は、おそろしく複雑な情報(記号)交換を反復し、意味解釈をおこないつつ、生きている。仮説推論、行動、そして成功失敗の複雑なからみあい。出会いと別れ、誕生と死。三十八億年間、生物はこのやるせない試行錯誤をくりかえしてきた。それが情報学的な世界観であり、自然観なのだ。そう、まったくの話、「自然は、世界は、習慣化する」のである。
右にのべたのは、古典力学的な美しい自然観ではない。とはいえ、こういう自然観も、普遍原理オタクにはなかなかこたえられないのだ。そんなわけで、僕の研究室には「基礎情報学」の看板が掛かっているのである。
最後にお断りをひとつ。予測可能性と法則性とは必ずしも一致しない。整然たる法則が成立していても、現実の個々の場面で予測が立たないことはよくある。最近よくあげられる例はいわゆる複雑系問題だが、古典力学の範囲でも、計算で解が得られない難問はたくさんある。では「分からなさ」とはどういうことか。――これについては、次回のお楽しみとしよう。