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一寸先は闇か光か

◎何もかも分からない

 アメリカ軍は四月九日、あっけなくバグダッド市中央部を占拠した。いったい誰がそんなことを予測できただろうか。

 市街戦になれば、一般市民を盾にしたイラク軍の粘り強い抵抗にあい、戦局はまちがいなく泥沼化する。それがフセインの狙いだと分かっているアメリカ軍は、遠巻きに包囲して連日ピンポイントの徹底的な空爆を続け、慎重に様子を見るだろう。――軍事評論家たちは物知り顔で、そう予測していたではないか。

 報道によれば、アメリカ軍自体、最初は慎重に包囲する作戦だったという。市民たちが街頭でフセイン打倒を祝っている様子をCNNテレビで見た海兵隊の前線司令官が、これはいけると電撃的に突入を決断したそうだ。

 だから未来のことなど、誰にも絶対に分からないのである。未来だけではない。いったい、イラクという遠い国で何が起きていたのか? ――テレビや新聞を一生懸命眺めながら、僕は何となく不安で虚しかったのである。

 このことは、マスコミ報道がアメリカ政府によって操作編集されているといった、ありふれた批判の次元にはとどまらない。「真実」など、いったいどこに存在するのだろう。フィクションとリアリティの境界は、絶えずはげしく揺れ動く。

 この問題が情報学の根底にある。

 そう、われわれは、フィクションを求めずには生きていけない存在ではないのか。ヒトは世界の根源的な不可知性を前にして、必死の対抗措置をこうじる。仮説をたて、つじつまのあったストーリーを作り上げ、それに合致した最適行動をとることで、どうしようもない生の不安を解消しようとする。

 こちらがこう言えば、相手はこう反応するはずだ、なぜならそれが「人間心理」だから……そんなことをあれこれ思い悩む。

 行動結果がうまく行けば、仮説は「法則(ルール)」として社会的に定着していく。その意味では、太古の神託卜占も現代の科学的予測もまったく同じだ。

 ヒトだけではない。ホフマイヤーの『生命記号論』によれば、どんな生物も大なり小なり、予測をしながら生きている。生物は環境から情報を受けとり、仮説をたてて行動する。予測が正しければ、その解釈は体内に記憶され、「習慣=ルール」と化していく。かくて、前号で述べたように、「自然は習慣化する」のである。

 とはいえヒトが他の生物と違うのは、個別の具体的な予測だけでは満足できないことではないだろうか。むしろその深奥に横たわる普遍的抽象的な法則(ルール)を追求したくなり、やがてついには、予測自体よりも法則追求のほうに夢中になってしまう。こうして、僕のような「普遍原理オタク」が誕生するわけだ。

 数理的な予測は、数式で表現される法則に具体的なデータ値をあてはめて実行するのが常道だ。だが、時には厳密解が得られなくて、法則は正しくても予測ができないことがある。これでは何のための法則なのか分からないのだが、普遍原理オタクにはそれでもよいのだ。法則の体系の美しさの前でうやうやしくひれ伏すのである。

 コンピュータの出現は、普遍原理オタクにとってまことに朗報だった。なぜなら、コンピュータを利用した数値シミュレーションによって、たとえ厳密解は求まらなくても、近似解で予測がつくようになったからである。

 そう、あれは一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけてのことだった。アメリカ軍はコンピュータを駆使して、さまざまな予測をおこないベトナムで戦った。綿密に計画し、合理的に最適な戦略をとったはずだったが、結果は周知の通りである。

 ところで当時、数理情報学専攻の大学生だった僕は、アメリカ軍高官のようにコンピュータで戦争に勝てるとは考えなかったが、コンピュータで平和と建設のための最適行動が求まるのではないかと漠然と思っていた。まぁ、方向は正反対だったものの、ノーテンキなところは大同小異だったということか……。

◎サイバネティックス 

 近ごろ、パソコンが普及したせいか、文科系の学者のなかにも、数式をたてコンピュータを駆使して論文を書く人が増えてきた。そのこと自体を悪いとは言わないが、老婆心から助言すると、数式とコンピュータを使えば必ず予測精度があがるというのは誤りである。数学を導入すれば理論は進歩すると無邪気に信じている学者もいるが、率直にいって、これは迷妄というもの。

 確かに数式を使えば、局所的な分析は一挙に深くなり精確になる。だが大局的に見て正しいかどうかはまた別だ。木を見て森を見ないということはよくある。端的にいうと、数式やコンピュータはいわば鋭利な刃物であって、使いこなせれば恐ろしく有効だが、下手をすると大怪我を招くのである。

 ところで、数式を使って予測する場合、二つの伝統的な方法がある。一つは決定論モデル、いま一つは確率モデルである。

 決定論というのは、方程式を解いて一義的な解を求めるという方法だ。たとえば、重力の法則を使ってロケットの軌道を計算するようなものである。これは基本的に、因果律によってものごとが動くという仮説にもとづいている。いわゆる古典力学的な世界だ。

 決定論の世界は美しいが、世の中はそう単純ではない。方程式自体、立てられないこともよくある。そこで、第二の確率モデルが登場するわけだ。これは、一義的な解を求めるのは最初からあきらめ、おおよそ見当をつけようというのである。

 確率モデルを使った学問的業績のなかで特に金字塔といえるのが、数理哲学者ノーバート・ウィーナーが二十世紀半ばに提案した「サイバネティックス」である。これこそ、情報学の最重要な源流の一つといってもよいだろう。

 僕は十年あまり昔、『デジタル・ナルシス』(岩波書店)という本を書いた。これは著名な情報科学者たちの評伝の形をとりつつIT文明を論じたものだが、登場人物のなかで、僕がもっとも好感を抱いたのがウィーナーなのである。

 ちなみに、サイバネティクスという言葉は誤解されている。サイバー社会というと、「市民のプライバシーをITで奪う高度管理社会」というイメージが広がりつつある。それを聞いたらきっとウィーナーは落胆するだろう。

 本来、サイバネティックスという学問は、完全な情報を握った権力者が世界を統御するための知ではないのである。むしろそれは、微力な個人が、一寸先は闇の世界のなかでどう生きていけばよいかという難問に、確率モデルで立ち向かうための学問だったのだ。

 ウィーナーは、ロシアでの迫害を逃れて、無一物でアメリカにやってきたユダヤ系移民の息子である。十四歳でハーバード大学の大学院入学、十八歳で数理哲学の博士号取得という恐るべき天才だったが、根っからの自由人、平和を愛する菜食主義者で、死ぬまで反権威をつらぬいたという。

 僕がウィーナーを好きな理由は、その著書を読んでいると、どこかしら繊細な不安、実存の畏れのようなものを感じるからである。理系の秀才にはとかく自信たっぷり、万事リクツで割り切る単純な輩も多いが、ウィーナーは反対に、世界のぞっとするような不可知の深淵をのぞきこんでいた人物だったのだ。

 世界は分厚い霧で覆われている。霧の奧でいま、いったい何か起きているのか? ウィーナーはその恐怖に、確率モデルという武器で戦いを挑んだのだと僕は思う。

 一九四八年に出版された主著『サイバネティックス』は、ルベーグ積分をはじめ高度な数学を駆使した難解な書物である。だが冷静な記述の背後には、世界の不可知性に対してギリギリまで合理的に対処しようという、一人の思索者の切ない苦悩がある。ノイズのなかから情報を選別し、推測し、最適状態に世界を運行しようと身構えている、誠実な理想主義者の肉声が低く響いてくるのである。

◎カオス、そして生命へ

 『サイバネティックス』のサブタイトルは、「動物と機械における制御と通信の理論」である。電子機械的な回路と動物の神経系を同一の数式モデルで扱い、さまざまなシステムを安定的に維持しようというわけだ。だがここには、ウィーナーの生物観とその限界もまた現れている。

 つまり、サイバネティックスにおいて、生物とは「平衡システム」(生命論でいう「第一世代システム」)に他ならない。生物というのは、外界からの擾乱をうけても、それに対抗して自分の安定状態を維持する。われわれ恒温動物の体温が、気温が変わっても変化しないのはその好例だ。このメカニズムは、サーモスタットつき暖房器具をそなえた部屋とあまり変わらない。このように生物と電子機械とを同一視するところから、「サイボーグ」とか「サイバーパンク・フィクション」などが出てくるのである。

 しかし、生物の機能とは自分の状態を「維持する」だけではない。その前にまず何より、自分の生きた体を「作り上げる」メカニズムがあるはずだ。

 こういう生成メカニズムに注目すると、生物とは「非平衡システム」(生命論でいう「第二世代システム」)として位置づけられる。物質やエネルギーが盛んに流入・流出する状況のもとで、ミクロなゆらぎをきっかけに、マクロな生命体秩序が一挙に創発するのである。このようなメカニズムに関する数理的な研究は、一九七〇年代以降、世界中でいっせいに盛んになった。カオス理論ないしフラクタル理論を中心とした、いわゆる「複雑系モデル」である。これを「ポスト・サイバネティックス」と整理することができるだろう。

 ところで、「法則にもとづく予測」という観点からすると、複雑系モデルはふしぎな第三のアプローチを生みだした。それは決定論モデルと確率モデルの中間に位置している。つまり複雑系モデルは、「確率的な現象が、実は決定論的にも扱える」ということを示したのである。

 これは応用数学の分野では、まこと衝撃的な出来事だった。僕が学生の頃、決定論モデルと確率モデルとはまったく異なる世界であって、二つが混じり合うことなど、どうしても考えられなかったのだ。

 たとえば、コインを投げて表か裏かどちらが出たかを記録する、という操作を続けていくとする。これは典型的な確率的現象だ。ところが、一九七〇年代後半に出現したカオス理論によれば、この現象をある簡単な関数によって完全に記述することができるのである……。僕はそのことを知ったときの驚きをいまでも忘れない。

 ただし、である。だからといって、確率的にしか予測できないデタラメな出来事が精確に計算できる、ということではない。

 右の例では、確かにコインを投げて次に表裏どちらが出るかは、ある関数によって計算できる。にもかかわらず、計算するためのデータの値(初期値)がほんの僅か異なると、結果はまったく異なるのである。微少な差異がいくらでも拡大していくという、いわゆる「バタフライ効果」だ。

 という次第で、結局のところやはり、法則はあっても予測はつかないのである。それなのに、法則は美しい異性のようにわれわれを誘惑し続ける。ああ……。