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生きている物質

◎母の愛はホルモンのせい?

 次に述べるのは、戦後日本がようやく豊かになりかけた頃の実話である。つまり、儒教的な価値観が完全に崩壊してはおらず、年輩の教師が中学生相手に道徳を説いても、さほど場違いではなかった時代の出来事だ。

 ホームルームで「この世でもっとも尊いもの」について討論が交わされていた。平和だとか、自由だとか、友情だとか……いや、土地だとか、お金だとか、ダイヤモンドだとか……まぁ当時の純情な中学生が思いつきそうな意見が出つくした後で、先生がゆっくり教壇に上った。国語が専門のベテランの先生である。

「君たちが言ってくれたことは全部大事なんだよ。でも、よく考えてごらん。それはもっとも尊いもの、本当にかけがえのないものなんだろうか」

 穏やかに、クラスを見渡す。

「ダイヤモンドなんて、無くしても一生懸命働けばまた買える。平和や自由だって、信念があれば取り戻せる。でもね」

 先生は遠くを眺める目つきになった。

「この世で君たちが持っている、かけがえのないもの、それは〃お母さんの愛〃じゃないだろうか……。君たちはその尊さについて、胸に手をあてて考えてみたことがあるか。当たり前だと思ってはいないだろうか」

 教室は一度にしんとした(当時はまだ「母親のいない子もいるのだから、不適切な発言だ」と非難される恐れはなかったのである)。

 そのとき、一人の生徒が手をあげた。理科の得意な少年である。

「先生、お母さんの愛も、一種の感情には違いないですよね」

「まぁ、そうだろう」

「感情は脳のホルモンのせいで起きるって、理科で習いました」

「ほう」

「それなら、脳のホルモンが一番尊いんですか」

 生徒達はざわめいた。先生は苦笑いして、半白の髪をかきあげる。

「いや、それは違う。……先生は理科の先生じゃないから科学のことはよく知らんが、物質的な法則では説明できないのが、尊さというものだ。君らにはちょっと難しいだろうけど、宇宙で一番大切なものは、科学では分からないんだよ」

「じゃあ、どうすれば分かるんですか」

「………」

「ホルモンが無ければ、絶対に感情は起きない。お母さんの愛も絶対でてこない。違うでしょうか」

「それは、その通りだろうね」

「だったら、脳のホルモンが一番尊いってことになります」

 すでに勝負は決まりかけていた。少年に同調して、教室のあちらこちらで頷いている顔がある。

 先生の頬がみるみる紅くなった。

「君は……君はそれなら」

 声がふるえている。

「……君を育ててくれたお母さんは、ホルモンのせいで、君を愛して下さったと思っているのか」

「………」

 逆襲に少年は黙り込んだ。

 数呼吸あって、しわがれ声が空気を切り裂いた。

「どうなんだ、え? ホルモンのせいなのか、答えろ、おい」

 少年は教壇を見つめ、ごくんと唾をのみこんだ。こぶしを握りしめて、粘っこい沈黙を破る。

「はい。そうです」

◎生命は機械か

 誤解をふせぐために、ここで断っておく。まず、国語の先生を怒らせた理科少年は僕ではない。

 確かに幼い頃から普遍原理オタクの傾向はあったけれど、僕は気の毒な先生を傷つけるほど単純な唯物論者ではなかった。ただ、徹底してホルモン説をつらぬいた人物にそれなりの畏敬の念をもったことは事実である。

 だが、ラディカルな点はよしとしても、やはり愚かな少年ではある。先生は説得の戦略を誤ったのだ。問題を個別の親子愛にすりかえたりせず、堂々と正面から議論すべきだったのだ。

 たとえば、次のように論駁することはできただろう。――人間にとっての尊さや大切さといった問題は、必ずしも科学的言説で解が得られるとは限らない。君の好きな女生徒だって、タンパク質からできているだろう。それなら、君が惚れているのはタンパク質なのか? そうではないはずだ。ある対象と、それを支える物質的基盤とは、一般に別のものなのだ。とか何とか……。

 それにしても、今の中学ではもう、こんなエピソードは生まれないだろうなぁ。現在の学校では、小学校から大学まで、知というものが真理や倫理より、実利と結びついている。……あ、いやいや……本エッセーは情報学について語っているのだから、とりあえずそんなことはどうでもいい。

 このエピソードを引用して、僕が書きたかったことは、生命活動と物質的メカニズムとのあいだに横たわる溝である。言い換えると、「生物という存在はどこまで機械なのか」ということだ。これが、僕の専攻する情報学における最重要研究テーマの一つなのである。

 お母さんの愛情は、ヒトでも犬でも共通している。例の先生なら何とおっしゃるか分からないけれど、僕は一般に母性愛とは、生命活動を存続させていく行為の一環だと考えているのだ。そう位置づけても母性愛の尊さは変わらない。実際、はるか太古まで遡れば、ヒトも犬も、いやそれどころかイソギンチャクもゴキブリも、さらには青カビもバクテリアも、ご先祖はみな同一なのだ。滔々と流れる生物進化の流れ。そこに生命の神秘、かけがえのない価値をみとめる哲学者や宗教家は決して少なくない。

 では、生物はそれ以外の無機的な事物とどこが違うのだろうか。もし両者のあいだに本質的な違いが無いとすれば、原理的には機械で人工的な生物が作れるはずだ。すると、この延長上で、やがては鉄腕アトムのような人造人間さえも作れるということになる。

 実際、そう信じている人々は決して少数派ではない。ロボット好きな脳天気ボーイの類ばかりか、近ごろは若い女性にもこの仲間が増えてきた。

 だが一方、生命の偉大な神秘に価値をおく人々は、これを迷妄として切り捨てる。そして、生物のどこかに、機械的・物質的存在を超えたかけがえのない部分があり、そこに至高の価値があると断言する。あの先生も、どこかでそう信じているからこそ、少年を叱りつけたのだろう。

 とはいえ、現代の科学は、あらゆる生物の体が物理化学法則にしたがう分子からできていることを明らかにした。僕たちの体中を顕微鏡で探しまわっても、神秘的物質など何一つ存在しない。

 ここで、「生命システム」という考え方が登場するのである。生命システム論では、生物を次のようにとらえるのだ。――生物とは複数の「要素」から構成された「システム」である。要素自体は機械的・物質的存在だとしても、「システムとしての構成の仕方」に、生物特有の性質がある、と。

 まさにこれが現在の科学的生命観である。とすれば、母性愛さえも、生命システム論によって論じることができるかもしれない。

◎生命システム

 生命システム論の歴史はそれほど古くはない。第一世代はおよそ二〇世紀半ば、前号で紹介したサイバネティックスとともに出現した。稀にみる数学者でありながら、実存的な生の苦悩を引き受けたノーバート・ウィーナー、あの「遅れてきた巨人」を思い出して頂きたい。

 ウィーナーの有名な著書『サイバネティックス』のサブタイトルは、「動物と機械における制御と通信の理論」である。つまりそこでは、動物の神経システムと電子機械的な回路システムとが、同一の数学モデルで記述されているのだ。

 第一世代システムは「動的平衡システム」と呼ばれている。これはシステムが、外部環境からのさまざまな影響のもとで自分の安定した平衡状態を維持するためのメカニズムなのだ。

 生物を取り巻く外部環境はつねに変化している。温度、湿度、光などだけではない。周囲にある食物の量も大きく変動する。突然、敵が襲ってくるかもしれない。そういう擾乱を受けながらも、何とか自分を維持していくのが生物という存在だ。自己維持機能に着目するのが第一世代生命システムなのである。サイバネティックスは、このメカニズムを研究する学問と位置づけられる。

 敵が襲ってきたときは、ボンヤリしているわけにはいかない。逃げるか闘うかする必要がある。それでアドレナリンというホルモンが分泌されるのだ。そうすると、血圧があがり、血糖値は高まり、酸素消費量は増えて、全身が活性化される。あの少年が主張したように、人間の怒りや恐怖という感情は、確かにホルモンと関連しているのである。もっとも、そのことと、「怒り」「恐怖」という感情自体とを短絡してはならないのだが……。

 しかし、第一世代システムのみで、生物の性質が尽くされているかと言えば、それは違うのである。「生命の尊さ」をサイバネティックスで見極められる、などと不遜なことを言うならバチがあたるだろう。

 まず、生物の機能は自己維持だけではない。そもそも、維持すべき「体」は、いったいどうしてできあがったのだろうか。たとえば、われわれの「耳」だ。これは奇妙な空間パターンをもつ存在だが、一種の動的秩序にほかならない(ブラジルでは女性をくどく時、耳の形を褒めると聞いたが、それくらい微妙なカタチなのだ)。物質としての細胞はつねに入れ替わっているが、形態としての秩序は保たれている。ミクロな細胞から作られるマクロな耳。それはいかに生成されるのだろうか。

 生物の体の「維持」でなく「生成」というメカニズムに着目するのが、第二世代の生命システムである。これは「動的非平衡システム」と呼ばれる。

 物質やエネルギーが激しく流入・流出するシステムにおいて、ミクロなゆらぎをきっかけに、マクロな生命体秩序が一挙に出現するのが第二世代システムなのである。たとえば、水道の蛇口をひねると、何かのはずみでよじれた縄のような形の水流ができあがることがある。こういったメカニズムが、生物の体内には至るところにあるのだ。僕たちがものを考えているとき、頭のなかでは脳細胞が発火して、ある種のパターンが形成されているのだが、これも基本的に動的非平衡システムなのである。

 第二世代システムの理論は、カオスやフラクタルなどをはじめとする、いわゆる「複雑系理論」が代表的だ。この研究は一九七〇年代あたりから世界中で注目され、今では理系の知のエースとなっている。ウィーナーほどではないにせよ、散逸構造論のイリヤ・プリゴジーヌとか、フラクタル理論のブノワ・マンデルブロなど、大物学者も輩出した。

 ところで、である。第二世代で生命システム論が終わったわけではない。動的非平衡システムは面白いが、生物にかぎらず自然界にはたくさん存在する。生物をその他の物質と峻別するには、さらに次回に述べる第三世代の議論へと進まなくてはならない。