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オートポイエーシス

◎難解ゆえに我信ず

 ときどき、理系の理論が人々の耳目をひきつけることがある。そこで使われる新しい概念や用語が、マスコミに盛んに登場し、はやり言葉になるわけだ。

 理系の学者のなかには、そういう風潮を激しく憤る人も少なくない。せっかくすばらしい新概念が提唱されたのに、素人がめちゃくちゃな使い方をするのはケシカラン、専門用語は正しく使わないと学問の進歩に差し支える、というわけだ。

 だが理系の新概念は「難解なところが魅力」なのである。いかにも深遠な根源概念のようだから文章の薬味に使えるのであって、目くじらをたてても仕方がない。

 まぁ、それだけ文理の裂け目は深いのだ。裂け目にはまり、長年あえいできた僕にとっては、深刻な問題なのである。だが、文章の薬味は別にして、文理の架け橋になりそうな理論が皆無というわけではない。生命記号論とならんで「オートポイエーシス理論」はまさにその一つなのだ。オートポイエーシス理論を知ったとき、僕は鉱脈を見つけた山師さながら、えらく興奮したものだった。

 前回、生命システム論に三つの世代があることを紹介した。オートポイエーシスは第三世代で、最先端の理論ということになっている(この分類はオートポイエーシス理論を日本に紹介した科学哲学者河本英夫によるものだが、僕も結構気に入っている)。

 情報学では、「情報とは本来、生物と不可分の存在だ」という大前提から出発する。これは、「情報とはパソコンや携帯電話などの機械と一体のものだ」という世間の常識をブチ壊したいという、僕のささやかな願望の反映でもある。

 だがそうすると必ず「ヒト、いやより広く生物と、機械とはどう違うのか」という大問題が浮上してくるのだ。ヒトを機械と同一視するのは誰しも気がひけるが、バクテリアのような原始的生物ではどうだろう。その行動のありさまは、物理化学法則にそった機械的なものではないのか……。

 だがオートポイエーシス理論によれば、生物とは「オートポイエティック・システム」であって、テレビやパソコンや自動車など普通の機械すなわち「アロポイエティック・システム」とは根本的に異なる、とされる。情報の意味解釈をおこなえるのは、あくまでオートポイエティック・システムなのである。

 さて、かくいうオートポイエーシス理論だが、これも難解さでは高水準にある。提唱者はウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラというチリの神経生理学者なのだが、その著書から定義を拾いだすと次のようになる。

 ――オートポイエティック・システムとは「構成素が構成素を産出するという産出過程のネットワークとして、有機的に構成された」システムであり、その構成素とは「変換と相互作用をつうじて、自己を産出するプロセスのネットワークを、絶えず再生産し実現する」とともに「ネットワークを空間に具体的な単位体として構成し、またその空間内において構成素は、ネットワークが実現する位相的領域を特定することによってみずからが存在する」(河本英夫訳『オートポイエーシス』国文社、より抜粋)。

 いかがでしょう。なかなかの難解さではないか。それゆえ例によって、一部の人たちの間でオートポイエーシス理論は大変人気が高いのである。

◎内部も外部もない

 右にあげた奇態な定義はひとまずおいて、平たくいうと、オートポイエティック・システムとは、「自分(オート)で自分を創り出す(ポイエーシス)存在」に他ならない。だからそれは「自己創出システム」と訳されることもある。

 考えてみると、どんな機械もヒトが作ったもので、自分勝手にニョキニョキ生えてくるわけではない。一方、生物はみずから勝手に生まれ、死んでいくものである。つまり、自らを作り続ける自律的な存在に他ならない。

 第一世代(動的平衡システム)は自己維持するだけだし、第二世代(動的非平衡システム)は部分的に生体のような秩序を作りだすものの、それは放っておくと消滅してしまう。だが、第三世代のオートポイエティック・システムは、遺伝や発生を通じ、三八億年もの長きにわたって生体秩序を作り続けてきたシステムなのである。

 さて、オートポイエティック・システムの性質はいくつかあるが、もっとも特徴的なのは、「入力も出力もない」「内部も外部もない」という点だ。これは途方もなく不思議な性質である。僕が講義でその話をすると、学生たちはみな一様に怪訝な顔をし、なかには香具師を見るような眼差しでこちらを睨む者さえいるのだ。

 確かに、どんな生物も外界から何かを入力し、何らかの出力を生みだすように見える。常識的には、生物の皮膚の内側が内部で、外側が外部、といってもそれほど間違いでもなさそうではないか。だが、よく考えると、それはあくまで距離をおいて外側から生物を眺めたときの話なのである。客観的な観察者の立場に立つとき、はじめて入力/出力、内部/外部が区別されて立ち現れるのだ。

 そこで僕は学生にいう。「そりゃあ君たちから見れば、僕は本から知識を入力して、それを君たちに出力している教育ロボットみたいに見えるだろ。でも僕から見れば、自分が酔っぱらって夢のなかで妄想をしゃべっているんだか、教室のなかで講義しているんだか、全然区別がつかないんだよ」。

 実際、僕の皮膚の内側が内部で、外側が外部などというのは、それこそ妄想である。生物は幻覚と知覚の区別がつかない。試しに目を瞑り耳を覆って、イソギンチャクみたいになってみればこのことはすぐ分かる。触手を動かし巧みに餌をとらえるイソギンチャクだが、その入出力を認めるのはわれわれのみ。イソギンチャク自身はただ触手を動かしているだけで内部も外部もないだろう。同じ祖先から進化してきた僕も、よく考えてみると内部も外部もなく、ただ闇雲に生きているだけの存在なのだ。

 こうして、生物(オートポイエティック・システム)と機械(アロポイエティック・システム)との差異は明らかになる。機械とは、入力と出力をヒトが決定し、それにもとづいて内部メカニズムが作られる目的論的な存在だ。一方、生物というのは、三八億年前からただひたすら盲目的に行動し、自らを産出し続けてきたのである。目的など無く、喰い、喰われ、セックスし、殺し、殺され、動物も植物もバクテリアも皆どろどろとつながって来た面妖な存在に他ならないのである。

 このように、視点を生物自身に沿わせてみることで、第三世代生命システムを把握できるのである。言い換えると、そういう視点をとらない限り、生物という存在の本質は絶対にとらえられない、というわけだ。

◎一人称小説とオートポイエーシス

 マトゥラーナはカエルの網膜の興奮パターンと外界の色彩との関係を調べていて、オートポイエーシスというアイデアに逢着したという。衝撃的な本『オートポイエーシス』が書かれたのは一九八〇年のことである(邦訳の刊行は九一年)。

 手短かにいうとこういうことだ。カエルの目にいろいろな波長の光を当て、波長に応じてどんな興奮パターンが網膜に出現するかを調べてみても、一向にはっきりした結果が出ない。たとえば、同一波長の光を当ててもまったく異なる興奮パターンを示したり、相異なる波長の光に対して同一の興奮パターンを示したりするのだ。こうして、マトゥラーナは「生物の外部に客観的な現実があり、生物はそれを認知する」というナイーヴな思考と訣別するにいたった。認めるべきなのは、「カエルの網膜の活動はカエルの色彩体験にもとづいている」というテーゼである。外界の物理的刺激は、カエルの神経システムに対してほんの引き金の役割しか果たしていない。つまり、網膜の興奮パターンは、現在受けている光というより、それが過去にどのような光を受けたかによって決定されるというのだ。ただしここで、カエルの色彩体験には、そのカエルがオタマジャクシとして生まれて以来の個体の体験だけでなく、遺伝子にきざまれた生命進化三八億年にわたる巨大な体験も含まれる。

 このことから、マトゥラーナは突然、恐るべき結論を引き出した。いわく「神経システム、いや細胞などの一般の生命システムは、再帰的=自己言及的な性質をもつ閉鎖系である……」。

 実は、波長と興奮パターンのあいだに単純な写像関係が無いといっても、こんな途方もない結論が出てくるわけではない(学習系なら普通、単純な写像関係は観察されない)。しかし、マトゥラーナは直感的閃きによって一気にこの結論に到達したのである。 

 もちろん、生命システムが閉鎖系だといっても、そこに物質的な出入りがないというわけではない。細胞や神経システムは、栄養をとり老廃物を排出しないと死滅してしまう。そうではなく、システムの産出メカニズムの基本形が再帰的=自己言及的なネットワークで特徴づけられるのだ。より精確にいうと、オートポイエーシスとは数学的=位相的な関係であって、必ずしも目には見えない。顕微鏡で見える細胞はその物質的表現にすぎないのである。

 さて、既にのべたようにオートポイエーシスの本質は「視点の移動」にあるわけだが、このことから一つ重大な疑問が生じる。いったい、システムの内部に視点を移動し、その行動に即して記述するということは可能なのだろうか? 理系の知は、外部の客観的な視点から記述することを大前提としてきた。実際、オートポイエーシス理論は果たして科学たりえるか、という議論をよく聞く……。

 理論的に決着がついたわけではない。だが、あえていうと、ここで僕は一人称小説を連想してしまうのである。小説は「私」の局所的立場から書く一人称小説と「神」の俯瞰的立場から書く三人称小説とがある。十九世紀くらいまでは後者が優勢だったのだが、プルーストあたりから前者に重点が移った、というのが文学史の常識のようだ。アナロジーでいえば「オートポイエーシスは一人称小説」ということになる。

 さて、読者諸賢は、ここで本誌一月号の石川忠司さんによる卓抜な議論「絶対的『肯定』の小説、絶対的『不信』の小説」を思い出していただきたい。そこでは、一人称小説が私的な情念だの繊細な内面だのを描く主観的文体だ、という常識が徹底的に批判されている。

 一人称とは「たんなる『一人称以上』の何ものか」なのであり、一人称小説はむしろ「知的な推論による開かれた客観的な記述」なのだと石川さんはいう。なるほど。「私=主体」が推論しつつ生きているのは確かだ。

 そして、このことは、本連載で繰り返しふれてきた生命記号論の「情報の意味解釈」と通底している。生命記号論の基礎にあるパースの「アブダクション=推論」とは、まさに解釈者(私=主体)の思考過程に他ならない。

 さらに、「私=主体」は外界に対し開かれているがために「閉じこもっている」という石川さんの指摘は、まさにオートポイエティック・システムの本質とぴったり重なっている。やはり、オートポイエーシス理論の売り物は難解さだけではなさそうだ。考えてみれば、物理学におけるナイーヴな客観的観察/記述の限界性が、「情報」という概念をもたらしたのではないか。

 こうして、生命記号論とオートポイエーシス理論を踏まえつつ、情報学は文理をつなぐ新たな知の地平に乗り出していく。