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コミュニケーションという罠

◎ココロが通じない

 含蓄のある言葉も、お役所の宣伝パンフレットによく顔を出すようになると、いつか香気が抜けてしまう。「コミュニケーション」という言葉もその一つだ。「明るい市民コミュニケーションの集い」だの、「コミュニケーション活性化キャンペーン」だのに参加してくれと頼まれると、ハイハイとにこやかに微笑しつつも、ひそかに断りの口実をさがしたくなる。

 コミュニケーションは、「共通の」とか「共有の」を意味するラテン語の「communis」に由来する歴史のある言葉だ。コミュニケーションをめぐる研究もさまざまで、かのユルゲン・ハーバマスの『コミュニケイション的行為の理論』といった名著もあるが、中にはとんでもなくお粗末なものも少なくない。たとえば、通信工学者シャノンの情報理論をそのまま延長したような社会コミュニケーション理論。そこでは、送信者から受信者へ情報(メッセージ)が送られると、送信者の「ココロの内容」がまるで小包のように受信者へ移動するといった議論がおこなわれているのだ……。

 まぁ、これは極端すぎるとしても、コミュニケーションという言葉には、対話によっていつか共通了解にたどりつける、という楽天主義があるような気がする。楽天主義そのものは悪くないのだが、それがお役所のパンフレットに登場すると、とたんにウソ臭くなってしまう。

 だいたい誰でも、「オレのこの切ない気持ちが、オマエなんかにそう簡単にわかってたまるか」と叫びたくなった経験はあるだろう。世の中、話せば分かるってもんじゃない。話せば話すほど、相手との絶望的な距離、遥かな誤解の大雪原が現れ、ココロのなかに氷塊をしこたまブチ込まれたように、かなしく、とめどなく落ち込んでいくのである……。

 という次第で、まともな情報学者なら、ココロの内容がそっくり送られるなどという世迷い言は決して口にしないだろう。

 前回のべたように、情報学では、生命体をオートポイエティック・システムと捉える。オートポイエティック・システムとは、「自分(オート)で自分を創り出す(ポイエーシス)存在」であって、専ら自己回帰的に、つまり自らの過去の歴史にもとづいて振るまう。そこには生物個体としての記憶ばかりでなく、三十八億年の進化史が刻まれているのだ。このことは、連載でたびたびふれたホフマイヤーの生命記号論の主張とも共通している。

 ちなみに先日、「生物は過去にもとづき、過去を前提として一瞬一瞬を新たに生きている。そこが機械と違うところだ」と学生に力説したところ、「でも人間は計画を立てることができます。だから未来を前提にして生きているともいえませんか」と反論された。

 ああ、「計画」――まさに計画という言葉こそ、僕たちが過去に囚われて生きていることの証左ではないか。僕たちは今日、計画を立て、明日、その計画にしたがって生きようとする。だが、明後日たてた計画にしたがって明日を生きることは不可能なのだ……。

 そう、僕たちは、徹頭徹尾、過去の自分に囚われつつ、生きている。過去の記憶にもとづいて世界を解釈し、その解釈がまた循環的に、自分の記憶に追加されていくのである。これは閉鎖系そのものだ。

 前回のべたように、オートポイエティック・システムとはいわば一人称小説であって、そこには「内部も外部もなく、入力も出力も存在しない」のである。

◎心と社会のオートポイエーシス

 さて、ヒトがオートポイエティック・システムである以上、オレが電話口で愛をささやけばオレの心の内容がそっくりオマエの心のなかに移ることなど、絶対にありえない。なぜなら、オレもオマエも、入力も出力もない存在だからだ。

 とはいえ、電話口で、必死で語るオレの声がオマエに届いていないわけではない。それなら、オマエに伝わった(かもしれない)ものは一体何か?――「刺激」である。オートポイエティック・システムは時々刻々、外界や他のオートポイエティック・システムから「刺激」を受け、それに応じて自律的に、自らの構造を変容させていくのである。これが、難解をもって鳴るオートポイエーシス理論の教えるところなのだ。

 オレとオマエのあいだでは、「情報の意味内容」なんぞが伝達されているわけではない。二人が伝え合ったのは「刺激」、おそらく官能的な、もしくは知的な刺激であり、それ以上でも以下でもないのである。

 というわけで、オートポイエーシス理論では情報伝達という行為自体が否定されてしまう。もちろん、言語によって、何らかの協調行動が発生することはある。たとえばオマエはオレの声に刺激され、深夜オレのアパートに車でやって来るかもしれない。あるいは、そっけなく「バイバイ」といって眠ってしまうかもしれない。これをオートポイエーシス理論では「言語的合意領域の発生」と呼ぶ。しかしそれは、オレの心や言葉と直接の因果関係をもたないのである。

 もともと生命哲学的議論であるオートポイエーシス理論は、情報だのコミュニケーションだのに深入りしない。だが、情報学者としては、ここで引き下がるわけにはゆかぬのである。現実社会で「コミュニケーション」なるものが大手をふって徘徊している以上(だからお役所のパンフレットにも載っている)、そこに分析のメスを入れなくてはならないのだ。

 まず、「社会」の捉え直しから始めよう。常識的には、社会はヒトからできている。ヒトはオートポイエティック・システムであり、自律的な存在だ。では社会はどうだろうか。あくまで自律的に行動するヒトの集りによって社会ができているという考え方は、ナイーヴすぎてどうも説得力に乏しい。むしろ社会こそ自律的なメカニズムで動いており、そこに僕たちが組み込まれている、というのが素朴な実感ではないだろうか。

 とはいえ、もし社会が自律的なシステムであり、その構成素がヒトであると仮定すると、理論的には困ったことになる。自律的なシステムの構成素が自律的であることは不可能だからだ。本来自律的な生命体である僕たちは、社会システムに組み込まれることによって自律性を喪失してしまうのだろうか……。

 これは実は、オートポイエーシスをめぐる難問だった。だが幸い、理論社会学者のニクラス・ルーマンが解決策を考え出してくれた。そこでは、社会は「コミュニケーション」を構成素とするオートポイエティック・システム、ヒトの心は「思考」を構成素とするオートポイエティック・システムとして、それぞれ位置づけられる。

 ウーン、これはなかなか巧みな解決策ではないか。社会は一見ヒトから成り立っているようだが、よく考えると物理的な包含関係が問題ではない。大切なのはむしろヒトとヒトとの関係だ。そう、社会とは、メールを交換したり電話したりといった「コミュニケーション」から構成されている。そして一方、ヒトの心も、次々に出現しては消えていく「思考」から構成されているといっていい。両者はともに自律的であり、社会は過去のコミュニケーションにもとづいて新たなコミュニケーションを、心は過去の思考にもとづいて新たな思考を、それぞれ自己回帰的に産出し続けている。

 こうして自律性の難問は解決された。

◎社会人のユーウツ

 さて、心的システムと社会システムの自律性がともに保たれるとして、果たして両者は対等なのだろうか。そういう立場の主張(たとえばルーマンの議論)もある。そこでは二つのシステムは互いに他を「環境」としていると見なされるのだ。

 だが、毎日汗を流している社会人としては、ちょっと首をかしげたくなるではないか。個々の心が現実に社会からいろいろな拘束を受けている、というのが僕たちの実感なのである。それゆえ、情報学では、心的システムの上位に社会システムがあり、前者は後者から拘束されていると見なすのである。

 出現するのは一種の「階層的オートポイエティック・システム」である。ただし、ここでいう「階層」とは、物理的な包含関係ではなく作動(行動)上の拘束関係なのだ。

 ここで大きな疑問が現れる。心的システムはオートポイエティック・システムであり、徹頭徹尾、自律的であるはずだ。これが「拘束」を受けるとは、いったい何が起きているのだろうか?

 ――注目すべきは「視点」である。一人称小説と三人称小説を思い出して頂きたい。両者をむやみに混在させないというのは小説の基本ルールである。いま、三人称で語られているとしよう。このとき、「社会システムの自律性」が観察されるのだが、一方そこで登場人物たちはきちんとそれぞれの役割を果たしている。つまりこのとき、登場人物の心的システムは「自律的ではない」のだ。

 ところが、視点を切り替え、一人称で語られているとすれば事情はまったく違ってしまう。そこでは社会システムなど単なる「環境」と化し、主人公に関して「心的システムの自律性」が正しく観察されることになる……。

 要するに、僕たちが生きている以上、それぞれの心的システムはあくまでオートポイエティック・システムであり、自律性を奪われるわけではない。ところが悲しいことに、いったん「社会的な視点」に立つと、僕たちはまるで決まった役割を果たすロボットのように見え始めるのである。

 たとえば、僕が教室で学生に授業しているとしよう。僕は学生に語りかけ、学生は質問に答える。そこにはコミュニケーションが生成消滅し、一種の社会システムが成立している。僕は教師ぶってもっともらしい理屈を並べ、学生もいちおう真面目そうに振るまっている。だが、それは社会システムの観察者から見たときだけだ。実は僕はこっそり腹のなかで、「あと十分で昼休みだ、今日は早めに授業を終えよう。でないとまたコンビニでおにぎりだ、勘弁してくれよ」などと思っている。ココロの中では何を考えようと自由なのだ。しかし、それを口に出すことはできない。学生にしても、「まったく眠いな、西垣の授業はいつも浮き世離れしてるぜ」と思っているかもしれないが、彼らは絶対に黙っている。そういう言葉は、教室で作動している社会システムの構成素としてのコミュニケーションには成り得ないのである。さもなければ、社会システムは崩壊してしまう。こうして僕は教師ロボット、学生は学生ロボットのごとく振るまうことになるのである。

 逆にいうと、わが情報学においては、「社会システムが存続していること」自体が、その構成メンバーの心的システムの間で「情報の意味内容(の一部)が伝達されていること」と等値されるのである。「意味伝達」など、本当はそのレベルでしか達成されないのだ。

 オレとオマエが電話で話しこんでいるとき、二人の心中で何が去来しようと、電話のやりとりを眺めている第三者には知ったことではない。電話がつづいているかぎり「ま、うまく行ってんだろ」ということになる。二人はただ、当該社会システムにおいて、恋人という役割を演じているにすぎないのである。

 ゆえに、「意味の共有」がコミュニケーションだとすれば、それを支えているのは当然、一種の「擬制(フィクショナルなメカニズム)」である。僕たちは社会のなかで生きている以上、この擬制を受け入れざるをえない。

 そういう冷徹な自覚から、情報やコミュニケーションといった概念を考えていく必要があるのだ。少々ユーウツではあるけれど……。