朝方晴れ間がのぞいたのに、正午まで持たずまた降ってきた。細かい霧雨である。高層マンションに囲まれた矮小な公園に、今日も克彦以外の人影はない。
何日も前から、まるで万象を幾重にも押し包むように降り続く霧雨。ベンチに座りこんでいる克彦には、公園全体が薄むらさき色の雨滴で染めあげられていくような気がした。
ともすれば、ベンチは克彦の意識のなかで船のように揺れはじめ、腕時計の針も頼りない。頭上はるか上、小さく見えるマンションの窓々に意識の錨を投げるように、克彦は紫煙をふうっと吹き上げた。
「ドクタースモーカー」――突然、麻美の歌うような声が耳に響く。妻の麻美は煙草のけむりが嫌いだった。四十年もよく我慢してくれたが、ときどき不機嫌になると、内科医がヘビースモーカーとは何事かと、からかい半分にしつこく克彦を責める。ドクタースモーカーと呼ばれると、克彦は肩をすくめた。麻美の死因が肺癌でなく子宮癌だったのは、せめてもの慰めではなかっただろうか。
紫煙は霧雨に抗しつつ、妖しく身をくねらせ、女の白い肌をなめるように立ちのぼっていく。克彦はしずかに目を瞑り、過去を振り払うように軽く首をふった。
医療事務一切を切り回していた麻美の一周忌がすぎた今、開業していた小さな診療所にはますます患者が来なくなった。だから克彦はこうして無上の優雅な自由を満喫していられるのである。
……ふと気づいた。
ベンチの上、克彦の膝の三十センチくらい脇に黒い財布が置いてある。びっくりして目を見開いたが、すぐに分かった。足早に去っていく若い男の後ろ姿がある。
「ちょっと、忘れものだよ」と声をかけたが、男は振り返りもせずズンズン行ってしまう。
何て奴だ。……舌打ちしながら、克彦は立ち上がり、懸命に後を追った。若い頃からスポーツには自信があったが、不摂生な生活のせいで体重が増え、下腹も大きく突き出ている。風のように歩いていく男のひきしまった背中にようやく追いついたとき、すでに克彦の膝はおかしいほど震えていた。
「おいおい、待てよ、ね、きみ」
白髪のほつれをかき揚げ、肩で大きく息をしながら、男の手に財布を押し込もうとして、克彦ははげしく手を振り払われた。
「あんたのでしょ、それ」
力のこもった鋭い一声。あっけにとられて握りしめた財布に目を落としたとき、克彦は思わず小さな叫び声をあげそうになった。
定期入れと小銭入れが対になった質素な革の財布。身分証明書に貼り付けた白黒写真は、まぎれもなく、学生時代の克彦のものに違いなかったのである。スポーツ刈りのその写真は麻美に撮ってもらったものだ。
――で、二年後にお医者さんになってそれからどうするのと、麻美はちょっとすねたように乱暴に言い放った。心持ちひらいた唇のあいだから、若い娘らしい匂いがした。
――アフリカ。でなきゃ、南米だな。
開発途上国に行って風土病の治療をするのだと、克彦は自己陶酔に満ちた口調でしきりに力説したのだが、麻美は遠くを眺めたまま返事をしなかった。
あの頃はまだ、克彦に喫煙の習慣はなく、麻美の唇は煙草のにおいのしないその唇を受け入れた。だが、いつしか克彦は夢を捨て、その空洞に臭い煙草をつめこんだのである。
すでに若い男の姿は消えていた。そう言えば、あの男は今時の若者には不似合いな、なつかしい開襟シャツを着ていた。
「つまり、あいつは昔の俺だったのか」
公園に戻った克彦は、しばらく座り込んでいたが、やがてポケットからライターを取り出し、静かに屑籠に投げ込んだ。
翌日から、克彦の診療所の扉には「英語とスペイン語で診察します」と横文字の看板がかかっている。