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遭遇

 ティーサロン「樹」は住宅地の狭い路地にひっそりと建っている。その一番奥のソファに、杏子は先刻からへたりこんでいた。

 店内はオカリナの響きがしずかに流れ、照度も落としてある。神経の苛立ちを鎮めるというハーブティーをゆっくり口に含むのだが、いつもと違って、杏子はなかなか落ち着いた気分になれなかった。

 ここ一週間、ほとんど寝ていない。激しくせき込む母親の背中をさすりながら、明け方を迎える日々が続いていた。それでも九時までには生化学研究室に行き、助手として大学院生に実験の指示を出さなくてはならない。

 すでにデータ収集作業は遅れ気味で、教授はひどく機嫌が悪かった。本当なら泊まり込みの毎日なのだが、母の看病のため五時に帰宅する許可は得ていた。

 だが、玄関に一歩入れば山のような家事労働が待っている。その前にほんの三十分でも真空の時間がほしくて、杏子はつい「樹」の扉を押すのだった。いわゆるシングルマザーとして、母一人子一人、懸命に育ててくれた母である。介護が厭だというわけでは決してない。ただこの半年はもう、精も根も尽き果てたという感じだった。

 窓ガラスに額を押しつけ、凝った肩をもみながら、杏子は暮れていく曇り空を見つめる。「何してるのかしら、私って」

 母が結婚を心待ちにしていると知りながら、学位をとるまでは、学会で認められるまではと、デートの誘いも断り、研究に専心してきた。だが、近ごろのデータは、自分の理論を嘲笑うようなものばかり。疲労のためか、データ処理にもミスが多い。実験結果が悪いのは処理ミスのせいなのか、それとも理論そのものに根本的な欠陥があるのか、もう杏子には分からなくなってきた。

 外の暮色が濃く感じられる。視線を室内にうつして……杏子は思わず息をのんだ。すぐ斜め前に、垢抜けた感じの紳士が座っている。優しそうな眼差しの中にのぞく懐疑的な知性。顎が少ししゃくれたその風貌は、間違いなく俳優Aのものである。

 杏子が中学生だった頃、Aはよくテレビドラマの脇役で出演していた。休日に二人でありきたりのドラマを見るのは、親子の質素な生活をいろどる小さな楽しみだった。スクリーンのなかのAを、陶酔したように見つめている母の横顔を眺めながら、杏子の想像はどんどん広がった。実物はおろか、写真すら見たことのない父。その空洞にはめこまれる素材。Aというより、Aが演じ分けるさまざまな人物――学者や、医者や、実業家や、サラリーマンなどの姿が、幾重にもイメージを重ね、揺らぎながら杏子のなかに沈殿していった。

 Aは手に持った書類に目をやりながら黙って座っている。書類は台本らしい。杏子はまるでAの存在を全身で受けとめるように、ソファに体をあずけた。もし、これほど疲れていなかったら、思い切って話しかけたかもしれない。たとえサインをせがむといった真似はできないにしても……。

 微笑しながら目をとじる。

 だんだん胸のあたりが温かくなってきた。先刻まで耳障りだったオカリナの響きも、今はなつかしい。よい香りがしてくる。

 …………

 はっと気がついた。いつしか、うとうとと眠りこんでしまったらしい。斜め前を見ると、もう紳士の姿はない。思わず腰を浮かそうとして、杏子は首をすくめた。

 考えてみれば、中学生のときから二十年以上たっている。Aにしては、あの紳士は少し若すぎる。別人だったのかもしれない。

 とはいえ、体のなかには、いきいきとしたものが溢れていた。そうだ、明朝からもう一度、別の方法でデータを取り直してみよう。今晩中に洗濯を片づければ、週末には久しぶりにボーイフレンドとデートできるかもしれない。

 杏子は勢いよく立ち上がった。