昨夜は夜更けまで飲んだ。午前七時きっかりに起きた田淵は、いつものように半ば瞼を閉じたまま、パソコンのスイッチを入れる。 夜中に緊急の連絡が入っているかもしれない。朝一番でそれを確認することは、証券マンとして最低限の義務ではないだろうか。
画面を眺めて、ふと首をかしげた。妙なメールが来ていたのだ。
「コーヒー……満塁ホームラン……地下鉄……如月……水……交通事故死……」。
脈絡のない六つの単語が並んでいる。それだけだった。差出人のところには「cold spring」と書いてある。
匿名のスパム・メールなど珍しくもないが、添付ファイルが無いところを見るとウイルス入りでもなさそうだ。株屋は昔から迷信深い。姓名家相はもとより、霊柩車とすれ違ったといった些細なできごとでも縁起をかつぐ。すべてを強引に株価予測に結びつけるのだ。もちろん、データ至上主義者の田淵は昔風の縁起かつぎなど軽蔑しているが、謎めいた文章なのは確かである。
「あなた、コーヒーさめちゃうわよ」という妻の声で我に返った。
あわてて一口飲み込んだが、思ったより熱い。火傷して顔をしかめながら新聞を読む。スポーツ欄に「松井、特大満塁弾」という見出し。アンチ巨人の田淵はいらいらして次の頁をめくる。松井が打ち、巨人が勝つ。あまりに退屈すぎる必然性。こんなふやけた予定調和も、松井が大リーグ入りすれば終わるのだろうか。
新宿でJRに乗り換え、東京駅に向かおうとして、足をとめた。「中央線は事故で現在不通」という立て看板が目にはいる。やれやれ……。
丸ノ内線はかなり混み合っていた。中央線で飛び込み自殺でもあると、いつもこうなる。乗客の顔はみな殺気立っている。「死ぬのは勝手だけどさ、迷惑かけるのだけはやめろよ。リストラ? 明日の我が身さ」
狭い車内にたまっている不平不満のガス。
……突然、肩をたたかれた。「あら、田淵さんじゃない。随分お久しぶりね」。
忘れもしない、学生時代に同級生だった田中夏子である。周囲では、卒業と同時に田淵が夏子と結婚するという噂があった。それは一時二人が切望したことであり、田淵にその気が失せてからも、夏子がかたく信じていたことだった。夏子の情熱は燃えさかり、生来気の小さい田淵はあまりの烈しさに恐れをなしてしまったのである。
直接別れを告げる勇気が無かった田淵は、葉書を出しただけで逃げるようにアパートを引き払った。あれから十年……。
口を開こうとした田淵の手に、夏子は強く名刺を押しつけた。「ごめんなさい、私、ここで降りるの。いつか連絡して」
その姿はたちまち雑踏に消えた。
名刺には、「如月夏子」とだけ書いてある。結婚して如月姓になったらしい。だが、住所も電話番号もないのに、どこへ連絡せよというのだろうか。
地上に出て、オフィス街を歩きながら、ふと、田淵は背筋がうそ寒くなった。
コーヒー、満塁ホームラン、地下鉄、如月――陰暦二月。差出人はcold spring。
「あのメールは夏子からか? まだ俺を恨んでいるのか?」
そういえば、濃い化粧をしたその顔はすっかり頬がこけ、目の下には死神みたいな隈ができていた。だが、そんな〃世界操作〃を一人の女ができるだろうか。たとえば、中央線を止めるなどということを……。
つるりっ。
突然、田淵の体は勢いよく道路に投げだされ、唇から悲鳴がもれた。水がまかれた路面に靴底が滑ったのだ。
「水、その次は……」。
横たわった田淵の網膜を、突っ込んでくるスポーツカーのタイヤの像が一瞬よぎった。