四月になると、グラウンドには新入生があらわれる。二年生以上と違うのは、トレーニングウェアの新しさというより、身体全体をある種のぎこちなさが包んでいて、それがようやく馬場に引き出された若駒のような、青臭く乱暴な喜びをあらわしていることだった。
一団となってボールを追っている新入生達を何気なく眺めながら、真砂子は研究室にいそいでいた。午後の授業が始まるまでに、先週のレポートの採点を終えなくてはならない。まだ若手とはいえ教授になると雑用も多い。返却期限の今日まで、どうしても採点する時間がとれなかったのである。
……はっとして足を止めた。一団のなかに、見覚えのある顔があったからである。
そう、まちがいない。あれは去年の夏休みのことだった。
――いつものように地下鉄をおりて、いそぎ足で改札口に向かいながら、真砂子はふと脇を通りすぎていく人影に目をひかれた。
長身でやせぎすの少年である。うだるような蒸し暑さだというのに、きちんと黒い学生服をつけ、やや背中をまるめがちに、大股でキャンパスの方向にあるいていく。
夏休みなので、若者はみなラフな格好をしている。女の子はタンクトップにGパン、男の子はTシャツに毛臑むきだしの半ズボン。もちろん、試合にいく運動部員もいるし、学生服の高校生が珍しいというわけではない。だが、その少年はどことなく違っていた。あまりにまともで、クラシックすぎる感じ、とでも言うのだろうか。妙に現代っ子離れした様子。少しもくずれたところがない。
今の高校では、学生服のボタンを外し、ワイシャツの下から浅黒い素肌をちらちら覗かせて、だらしなく着るのがカッコいいのだ、と聞いたことがある。真砂子はそういうセクシーで頭のきれる若者達からそっと目をそらす。そしていつも、三十年前のまぼろしに滑り込んでいく。お揃いのセーラー服にリボンをきちんと結び、校門までの道を黙って歩いていたあの頃へと……。
真砂子の高校は私立の女子校だったが、隣にはやはり受験校の男子校があった。毎朝、一群の高校生が駅から校門までの登校路をドヤドヤと歩いていくのだが、男女が言葉をかわすことはめったに無い。仮に男子生徒の誰かが話しかけてきても、真砂子はけっして目を合わさないようにするのだった。
というのは、その頃、たった一つの背中を眺めるだけで十分だったからだ。やせぎすの長身、やや背中を丸めぎみに、大股で歩いていく後ろ姿。少しもくずれたところの無い、黒い学生服のその姿。
……なつかしかった。本当にその姿はなつかしかった。
少年はゆったりとした歩調だったが、ぎらつく陽射しをものともしない。ぐんぐん進む。ヒールのある靴に重い鞄をさげた真砂子は、たちまち引き離され、キャンパスに入ったときはもう相手を見失ってしまったのである。
研究室のある建物の玄関にたどりついて、真砂子は思わず息をのんだ。
向こうから歩いてくるのは、なんとさっきの学生服の少年ではないか。あたりをキョロキョロ見回している。建物を探しているのだろうか。夏休みにどこかの学部が高校生向けの公開教室でも開いているのかもしれない。
「きみ、どこに行きたいの」
びっくりしたように、少年は立ち止まった。
「いえ、別に。ただ見てるだけです……」
つよい光線が、いかにも白皙といった感じの若い肌にはずんでいる。それは三十年の時間を超えるきらめきだった。
――そしていま、あのときの少年が、真白いトレーニングウェアをつけ、グラウンドを駆け回っている。若駒のように。
「そっか。受験生だったんだ、あの子」
真砂子は微笑して背をそらせ、思い切り伸びをした。四月の風があたたかい。