付属病院のほうから靖男が歩いてくる。その足どりがいつもよりちょっと速いように、志津には感じられた。
思わずベンチから浮かせかけた腰をいったん戻して、夫から目をそらし、手に持った文庫本に何気なく目を落とす。
……靖男が隣にクシャッと腰をおろした。少し息を切らせている。
「お疲れさま。どうだった、検査」
「どうって……すぐには結果でないからね。一週間後に来いってさ。また会社休まなくちゃ。もーうんざり」
ごま塩の髪の乱れも直さないまま、靖男ははじけたように笑った。
待合室にいるという志津に、靖男は強い口調で、いや、大学講堂の前のベンチで待っていてくれと言ったのだった。
たしかにここは待合室より気持ちがいい。
「ほんとに温かいわぁ。小春日和」
今日は風もなく、芝生に陽光がちらちらと戯れている。付属病院からここまで五分歩くあいだに、たぶん靖男は元気な顔を作ろうとしたのだろうと、志津は思った。
三年前、靖男は肝硬変からガンを併発し手術を受けたのである。豪放が売り物の夫がはげしく取り乱した様子を、志津は忘れられない。部長職の激務とアルコールが原因だと、医者はこともなげに言い、再発したら今度こそ危ないと付け加えることを忘れなかった。
回復後、靖男ははるかに勤務が楽な子会社に移った。カビ臭い小さな部屋で、毎日静かに座っている。
血液検査で異常値がでたのは、五日前のことだった。腹部超音波検査で肝臓ガンの有無を調べるために、今日、二人は大学の付属病院にやってきたのである。
「アッ」
志津が小さく叫んだ。白いボールがころころっと、坂になった芝生をころげおちた。追いかけてきたのは三歳くらいの男の子。……が、みごとに転んでしまい、勢いよく泣き出す。若い母親が笑いながら抱き上げる。
二人は顔を見合わせて微笑した。
「思い出すなぁ」
「洋ちゃん、ちっちゃかったもんね」
夫婦には洋一という一人息子がいる。よちよち歩きを始めた頃から、晴れた休日には近くの公園に出かけるのが三人の習慣となった。
野球好きな靖男は、まるで野球少年に特訓でもしているような顔で、洋一にボールを投げつける。洋一は大喜びでそれを追う。
事故はそんななかで起きた。
それたボールを追って、洋一が崖をころげ落ち、失神したのだ。救急車で運ばれた病院で、検査室から出てきた医者が笑顔で無事を告げたとき、靖男は志津より大きな声で泣き出したのである。
その洋一ももう二十六。高校時代からドラムに凝りだし、大学を三年で中退して勝手に渡米してしまった。
「今どこにいるのかな、あいつ」
「この前は、手術するって言ったら帰ってきたから……どうしようか」
君は居場所を知ってるのか、と言いかけて、靖男は口をつぐんだ。
「まあ、別に……いいんじゃないか……便りがないのはいい便りって言うしさ、うまくやってんだろ、あいつも」
「うん」と答えて、志津はそっと靖男の腕をとる。堅い体がぶるんと震えた。
「なぁ、母さん。俺……」
その言葉を断ち切るように、志津は指に力をこめた。
「……大丈夫よ、お父さん。お酒もやめてるし。無理してないから」
こっくりうなずくと、靖男は急に立ち上がった。
「よーし、いくぞぉ」
遊んでいる小さな男の子に向かい、大きなワインドアップのモーションで、まぼろしのボールが飛んだ。